薄暗い部屋でひとりの男が、うろうろと部屋の中を動き回っている。
男は部屋の中の、ある一角を見まいと床に、いや、自分の足元に視線を向けている。
しかし、焦点は合っておらず傍から見れば、かなり酔っているような覚束ない足取りである。
彼は決して酔っている訳ではない。ここにアルコールがあれば迷うことなく摂取しただろうが、
たとえあったとしても、気づかないかもしれない。
男の目は、埃で自分の靴が汚れていく様子さえも見えていないようだ。
「何でこんなことに…」
男は顔を上げる。
見まい見まいとしていた方へと視線が向きかかり、何とか押し止まり窓の外を見る。
窓の外では風が吹いたようで、鮮やかな緑の葉が競うように揺れだす。
遠くに大きな白い雲が見える。
ぼぉっと見つめていると、木々の緑しか目に入らないようになった。
まだ緑はざわざわと狂ったように蠢いている。
枝が揺れる。
揺れる
揺れる
コトンッ
「ギャッ!」
男は振り向く。振り向いた先に彼が今、最も見たくないモノがあった。
ソレは、彼がこの部屋に入ってきた時から変わらず、そこにいた。
「何だよ脅かすなよ…」
言って、その言葉に自分で苦笑する。
「何ビビッてんだか、俺は。そうだよな、ビビる必要なんかないよな。今のは、枝が木に当たっただけさ。
だって、俺は何も悪くないんだ。そうだそうだ」
男は自分自身を納得させると、一度大きく伸びをした。
これは、ここ数週間彼が何度も何度も繰り返してきた儀式のようなものである。
何度も目を背けようが、ソレから逃れることは出来なかった。
目をそむけては、向き合い、自分自身を擁護する。またソレと向き合う。
何度それを繰り返そうが罪悪感、ともすれば生理的嫌悪感、それが拭われることはない。
彼は気づいていたが、気づかないフリをした。
「今日で最後だ。これで全てが終わる。そうしたらアイツともおさらばだ」
ゆっくりと、部屋の隅にある大きな作業台に向かう。
その足取りは重い。けれど、止めることはしなかった。
朱い布が目に痛かった。
作業台に広がる朱い布。その布には白い花が、散らばされたかのように描かれており、
どちらの色も、互いを打ち消すことなく存在を際立たせている。
そこから突き出た白く細い手足を見たくないがために、布ばかりが目に入るのかもしれない。
(俺は悪くない、俺は悪くない)
そろそろと、目線を上げていく。
朱が。
そこには白い花も散ってはいない。
朱の上には、細い頸。
朱い。
朱い唇が。
そして、黒。
ふたつの黒が。
そこには何もない。
まだ、ない。
これからできるのだから。
ゴクリッ
男は唾を呑み込むと、最後の作業に取り掛かろうとする。
男の目には、朱い唇がにぃっと歪んだ様に見えた。