富山城 富山城址公園
そこは…まさしく蜃気楼のような城跡なのでした。
春先の日本海、富山県の海岸線から目撃される自然現象のひとつ蜃気楼…。
この富山城には残された石垣や堀などの痕跡は明確にありました。
しかし、城の実態は一般に殆ど知られてはいないのです。
浮き城”とも呼ばれる富山城は、その豊かな水を湛えた堀に浮かぶようだったと…。
『神保長職(ながもと)』が天文12年(1543年)に築城したのが始まり。
城は覇者とならんとした武将達の攻防で絶えず激震していました。
一向一揆、上杉謙信、武田信玄、織田信長などの勢力が次々と迫りくる脅威。
群雄割拠の戦国時代は、信長の武将である『佐々成政』の居城として知られます。
秀吉の天下となると自害させられ、江戸時代は富山の前田家が居城としました拠点。
『前田利長』が整備した以後は幕末まで富山藩政の中心となりました。
城内では、桜が一斉に開花して風の中にも余韻が感じられる好天。
築城以来の歴史が400年にもなる富山城の変遷と人々のドラマがありました。
現在は一部を再現したのみの城址公園は、市の中央にあり交通の便も良いです。
歴史の舞台として県民の心にシンボライズされた天守閣など見応えもあります。
富山城では石垣改修工事が平成18年から開始され、同時に石垣の調査も続いています。
石垣の築造技術の工夫など未だ知られぬ歴史的価値が判明してきました。
神通川からの水源も豊富であり、そうした地の利を生かした築城。
マガモも穏やかな気持ちで堀を愉しんでいるようですね。
思わぬ大火に見舞われ焼失したこともありますが…
ひとつの藩に城は二つもいらない。 元和元年(1615年)の一国一城令にて廃城。
時は流れ寛永16年(1639年)富山藩として分藩されることになり復活します。
初代藩主には前田家から『前田利次』が入城することから新しい藩政もスタートします。
花に彩られた城やメインストリートにも県民のもてなしムードが感じられました。
ご覧のようにバランスが良く堀の守りもあるので石垣の高さも極端ではありません。
お城の規模は、江戸時代になると最大の広さになり再現されているのは一部だけ。
都市の景観に融合されて美しい姿で出迎えてくれます。
凄絶な戦いもあった歴史を感じさせぬほど…静かな城の佇まいは癒しを与えます。
湛える水に潤わされ立山の優美な背景に守護された富山県の自然。
この城の風情は…よく表現しているではないですか。
堀の対岸に…立山の如き白い姿の天守閣が美しいですね。
史実に関した資料も不鮮明なために果たしてこの姿であるかは断言できません。
しかし天下が平定され、合戦も終わった江戸時代にかけて外観の調和は尊ばれたはず。
美しい桜も風に揺らいでいたでしょうか。
幾多の戦乱を経験した地であればこそ…いま平和を愛おしく想うもの。
頬に …花びら
千歳御門 (埋門 うずみもん)
前田家は富山城で13代に渡り居城しました。
その10代藩主であった『前田利保』の隠居所である千歳御殿への正門です。
嘉永2年(1849年)城址大通りの東側に造営していました。
城内から眺める…
現代のように写真もない資料も僅かな中から復元していく作業はたいへんなことでしょう。
城の姿は凛々しく、豪雪の時期も綺麗に雪景色を飾っているでしょう。
文武に秀でた前田家の識者も参じて造営され…さぞや見事な城だったと思えます。
向かい合う鯱 …黒い瓦と白い壁のコントラストが映えます。
まずは富山にもお城がある。 それだけで嬉しい気持ちです。
この天守は、『富山市郷土博物館』としての機能も果たしています。

現在も発掘が進められる富山城址、その最新の資料や文物を展示しているのでした。
広く美しい庭園が整備され、明るい陽射しの中で午後の風を愉しんでください。
富山城址の威容を知り。 人々の癒しとなる憩いの場をご一緒いたしましょうね。
お願い☆ 記事の無断複製・転載はご遠慮ください(^-^)/。