ここは名所の親不知(おやしらず)です。


     その天険断崖は、旅人の難所として広く知られる海岸線です。

     しかし穏やかな天候の時は、ご覧のように青く…水平線の彼方まで望めそうな日本海。









     新潟県糸魚川市から富山県境の方向へ西に移動すれば断崖の連続する地形に

     這うような国道の急カーブの道路、それは北アルプスの飛騨山脈に属しており

     日本海側が北端となるのです。

     ここまで浸食されるには膨大な歳月が経過したでしょう。







    壇ノ浦の戦いに破れ…平清盛の弟である平頼盛が助命され落人として暮らした

    越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)。

    それを京都で知り、恋慕い越後国へと旅立った奥方と子は、この難所に差し掛かり

    激しい波涛に巻き込まれ我が子がさらわれてしまいました。

    この悲劇を詠んだ歌が 『親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く










    糸魚川にて生まれた明治の詩人、相馬御風(そうまぎょふう)の歌碑もあります。

    良寛さんの研究家であり、早稲田大学の校歌『都の西北』、流行歌の『カチュ-シャの唄』

    を作詞した人として有名なのですね。







    親不知コミュニティパーク記念広場にある『愛の母子像』です。

    こうして開通した国道を往来するクルマ、旅人の道中安全を祈り見守っています。


    その碑文として刻まれているのが相馬御風の歌です。

     かくり岩によせてくだくる  沖つ浪のほのかに白き  ほしあかりかも






    ここからの眺望は、天険を見下ろせる素晴らしいものです。





    展望台は凄まじい崖っぷち…注意してください。










    天下の険である親不知子不知海岸。

    それは北陸本線の親不知駅を中心とした青海駅から市振駅の間約15キロメートルの総称。

    (親不知駅~市振駅の間を親不知、親不知駅~青海駅の間を子不知と呼びます。)

        ここは海抜37メートル地点になります。





             ※ 夜中は?こんな景色(見えない)ですけれど。






    日夜トラックが走り抜けていく目の前は急カーブのど真ん中になります。









    やはり険しい海岸地帯ゆえに穢されず美しい海洋資源も守られたのでしょうね。









    北陸自動車道は海上をアーチ状に通過する区間で国道8号線と立体的にクロスしています。








    親不知の1キロメール手前の地点。  この先は狭いトンネルと岩盤のシェードの区間。






    見上げれば…高速道路、親不知インター出口までも東へ1キロ地点。







    遠い昔に汽車が通過していたのでしょう、旧北陸本線の親不知トンネルでしょうか。






    この地点に重なる、国道旧北陸本線えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン






    
    えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン

    そして旧JR北陸本線の青海駅から市振駅間になりますね。

     禁止(非常に危険ですから線路に近付いてはなりませんよ!)






    真夜中にも轟音とともに揺るがす貨車の長い列が走っていきますよ。

    接近を知らせる事前の危険信号音になるブザー音が静かな夜陰に響き渡ります。










    親不知の区間にある国道は海抜が高くコンクリートで補強されたシェードやトンネル。






    駐停車はできないのでしょうが、ゆっくり走れるなら隙間から日本海が…。





    水平線が少し…丸く見えるような気がします。

    冬場は荒天で暴風に晒されることも、こんな天気の良さは貴重です。













    親不知~よりも知られていない名所旧跡?があるんです。


    この道を旅したら…旧道沿いにある町を訪ねてみましょう。

    県境を越えて富山県の朝日町にあります。   

    国道8号線の境一里塚を目印に海岸線の分岐路を進めてください。







    北国街道を旅しながら人々の東西交通は途切れません。

    境関所(さかいせきしょ)といえば加賀藩が管理していた関所でした。

    北国街道で越中国(富山県朝日町)から越後国(新潟県糸魚川市)の国境にあります。





    富山県指定史跡として境関所の大門が復元されているんです。

    (最寄の駅は、JR越中宮崎駅)






    昔は留番所として設けられていた場所を、加賀藩が慶長19年(1614年)に整備します。

    加賀藩の領地は広く、東端にあったのが境関所。

    この地を加賀藩は直轄地として国境の警備を重要視しました。

    国内では最大級の関所のひとつとも言われているんですね。

    (当時は箱根関所より規模も大きかったそうです。)





   

    境川を挟んで東に越後国の方面には、幕府が直轄して高田藩が管理していた市振関所が

    ありました。  両方の関所は約一里(4キロメートル)の距離でした。

    親不知の難所こそ市振関所の先にありますね。

    朝日町の周辺海岸では古くから海岸での製塩も行なわれていたそうですよ。

    御塩奉行”様もいらしたのです。  







    幕末の日本から明治政府へ国境での警備は明治2年(1869年)まで継続していました。

    関所のある拠点として町は栄え、浜関所は海上・海岸警備の海上渡航改めがお仕事。

    御亭(おちん)という街道の通行改め関所は海や山中からの不法越境者を監視します。

    視察などで藩主自らが来訪すると宿泊したのが御旅屋(おたや)です。

    管理していた駐留する役人の長屋、捕らえられた者の牢屋もありました。

    (どうやら武具の習いとしての射撃場もあったらしいですね。)












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