NHK朝ドラ『まれ』には欠かせない伝説の場所を紹介しましょう。

        能登半島の海岸線をなぞるような国道249号線。

        爽快な海風を感じながら旅をするには絶好の季節です。

        輪島市の曽々木海岸を過ぎて隣の珠洲(すず)市に入ると…こんな道標がありました。


        塩街道(ソルトロード?ですか)





         能登の外浦は日本海の荒波に削られて男性的な岩場が各地に見られます。

        綺麗な景色…真冬には波の華”という現象も発生します。





         八世乃洞門新トンネル、逢坂トンネルを抜けていきますと広い海岸へ。

        仁江”(にえ)という地名の場所に着きます。

        ここがドラマ『まれ』で桶作さんの塩田シーンを撮影した場所なのでした。




        日本最古の形式を残す有名な『揚げ浜式塩田』なのですよ。

        もう500年間も同じ製法を守ってきています。

        塩田は、固い岩盤の上に粘土を敷き詰めて、その上に砂を被せた層で成り立ち。

        長い年月均されて…塩作りされてきた砂の粒子も細かいことでしょう。

        一艘、二艘と数えられる揚げ浜塩田、一艘の面積は約60坪(200㎡)です。





        海水を砂の上に散布し攪拌ながら、天日や風を利用して濃縮する採鹹工程

        濃縮された海水を煮詰めていく塩作りの煎熬工程”に分かれます。

        古来のまま塩を作り続けてきた伝統の塩田を継承すべく

        平成20年3月13日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。


        代々、角花家さんと仰るご家族が塩田の守り手なのです。

        現在は5代目の角花豊さんと6代目の角花洋さんが塩を作っています。








        この大きな桶は、多分…引桶(ひこけ)”でしょう。

        ドラマでは、引桶に入れた海水を打桶(うちょけ)”という円錐状の道具で撒く。

        桶作元治さんが、真剣な眼差しで撒いているでしょう。

       
        壁に立てかけてある道具は、しっぱつ…砂をすくい取ります。

        木製のスコップみたいですね。

        塩田の中央にある2メートル四方の四角い枠は、沼井(ぬい)ですね。

        鹹砂(かんしゃ)を集めて入れる所です。







        学校でグラウンドを均すための…トンボに似ていますが?柄振(えぶり)。

        こまざらい”と呼ぶ道具で塩田を縦や横に砂を掻いたり均します。

        乾いた濃い塩分の砂を鹹砂(かんしゃ)寄せといって掻き集めます。


        簡単に説明すれば、海水を何度も撒いて炎天下で乾かすと砂に濃縮塩が付着。

        その塩を端間桶(はざまおけ)集めて~さらに鹹水(かんすい)をかけます。

        こうして塩の結晶が溶けて下に高濃度の塩水が得られ、砂は塩田に返します。






        小屋の内部には、とても大きな塩釜が鎮座していました。

        上記の作業で出来た塩の鹹水(かんすい)を釜で煮詰めていくのです。






        まずは塩釜で荒焚きしていくのですが…時間ほど。

        一旦は温度を冷ましてから濾し桶を使って濾過します。

        そうして抽出した塩の鹹水を再び釜で…時間かけて焚くと見事な塩が完成。






        塩釜なんて…昔の歌で詠まれそうな世界。

        永年の塩焚きで白い結晶だらけです。

        天然の海水から伝統の技だけで作られる貴重な本物の塩なのですよ。

        しょっぱい…(笑)  お料理好きのブロガーさんは試したいでしょうね。






        こうした塩作りの作業を『浜仕』と呼ぶそうです。

        浜仕”は毎日…御前2時半頃に起床することから始まります。

        まだ暗い真夜中に塩田に出ます。

        海水を汲んで荒潮桶(あらしおおけ)、担桶(かよいおけ)を使って

        肩荷棒で両方に担ぎながら海から海水を運び、しこけ(大きな桶)に溜めます。

        そして、おちょけで広く細かに海水を砂上に散布します。

        砂は…こまざらえで溝付けしていきます。

      
        ほんとうに過酷で地味な作業ですね。  終わった頃は明け方です。






        午後からは…浜寄せ(塩を集めます)作業に入りますが、炎天下でも休めません。

        先程…説明した釜焚きの行程に向けて粛々と作業は進んでいきます。

        奥能登の天候は決して温暖ではありませんので、真冬は塩作りはできないのです。






        揚げ浜塩田の下にある日本海…その恵み

        重く海水で満たした桶を担いで運ばなければなりません。

        とても透明でしい海です。








        この周辺に多い岩の地形、千畳敷と呼ぶ広い岩場があるくらいです。






        ほら…ちいさな船着き場までありました。  
   





        日本国内の揚げ浜塩田の始まりは…

        平安時代の終わりから江戸時代にかけて行われていたそうです。

        加賀藩では、慶長元年(1596年)から営まれているといいます。

        不作で困窮する土地の農民を救済すべく始めた事業が能登製塩。

        前田利常公が能登に奨励しました。

        寛永4年(1627年)加賀藩は、塩手米制度を置きました。

        (つまり、米の代わりとして塩を納める)。


        海岸部で石高も上がらず、水田も不足して米作に向かない土地の農民…

        代わりに塩を作り、玄米一石につき塩九俵(四石五斗)という割合で換算。


        江戸時代に藩が正式に製塩を専売した藩は、加賀の前田家と奥州の伊達家だけ。

        明治4年の廃藩置県まで幕制の保護下にあり…

        そうして360年に渡り塩作りの伝統は守り続けられたのです。 








       古代からの製塩は、藻塩焼き揚げ浜式塩田入浜式塩田流下式塩田

       いまではイオン交換膜による製塩にまで進歩してきています。

       そんな時代の流れで、揚げ浜塩田は異色の存在感を放ちます。






          以前から観光資源として、注目されてはいましたが。

       近年、驚いたことに周辺に観光目的の塩田が急増し始めています。

       但し…新たに区画された塩田は、そこに砂を運んで仕組みを模倣しただけ。

       本当の塩田の奥深さは無い工業生産のようなカタチを踏襲しています。

       かつては年貢米を納められない農民の救済策?が、いまや過疎の救済…



       有名にならずとも、昔気質な塩作りを守る姿勢が好きでしたから惜しいですね。

       この塩田だけは聖なる男の仕事場、保護すべき文化遺産のような場所です。

       全国にも揚げ浜の塩を料理に使う熱烈な料理人さんも多く聞いています。

       












        いまや観光スポット 奥能登塩田村






        道の駅や立派な塩の資料館まで建設されまています。

        塩田作業の体験もできるそうですよ。






        皆さんも能登半島を旅したら訪ねてみましょう。

        意外な発見こそ…旅の醍醐味です。








 

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