国立歴史民俗博物館



  私的考察から愉快なミュージアムは始まるのです。



弥生時代の高床式倉庫の屋根って?おにぎりに似ていませんか?。


この列島で農耕が本格化していく時代、水稲の栽培とくれば…お米が美味しい。

日本最古の~おにぎり”は、2000年ほど前の遺跡から出土しています。 おにぎり

杉谷チャノバタケ遺跡という石川県鹿西町では(いまは中能登町)炭化した米塊として出土。

そこは現在、おにぎりの里と呼ばれています。 おにぎり

世界中の米作地帯で、おにぎり”のような食べ方は日本特有です。



まさしく米蔵ですね。 柱にはネズミ返し?といわれる板状の仕掛けも見えます。

木柱をネズミが登ってきても妨害できるのです。

こうした食の変化は、シナントロープであるネズミなど害獣の繁殖に影響したはず。









これだけの米蔵を作れる建築技術も大したものですね。

高床のメリットは、漏水や湿気の対策…乾燥させやすい、害獣から守りやすいこと。


籾(もみ)のままで、お米のサンプルが何種類か置いてあります。

樹木から削り出した~(うす)に(きね)は実用的。


米作で穀物を蓄えることで、食糧自給を安定させたことは画期的な変化です。

貯蔵技術も縄文期とは比べものにならないでしょう。






いまでも日本各地にある白蛇”の信仰も稲作文化の影響で、害あるネズミ等を駆除してくれる

蛇”は小型哺乳類の天敵ですからね。

また蛇”とは水神ですから…灌漑など水が頼りの弥生人からありがたい神とされるのです。



野生の猪を飼い慣らして、家畜化する試みもあったでしょう。

より総合的な集落形成、里山のあり方も…こうして広がっていきました。









大陸・朝鮮半島から渡来した人間たちの種族。

日本海を渡り…新天地へ移住した祖先が持ち込んだ稲作などの栽培農法。

今日に至る日本の農業や食糧生産の礎となったのは確かです。



水田というのは単なる自然の湿地帯とは違い、人工的に企画された耕作用地です。

畦(あぜ)を囲いとして作り、毎年々の手入れで泥を耕して水を注ぎ稲を植える繰り返し。

それが数世紀も続きますと、深い層まで泥が耕作に適した粒子状に堆積した土地になります。

備前焼などの陶芸は、そうした水田由来の細やかな粒子の土を生かしているそうです。

田んぼ…水田とは、稲作で米を栽培してきた人々の歴史そのもであり貴重な文化でした。



米飯の美味しい米は長年の守りと…近年は品種改良で取り組んだ穀物の結晶でしょう。

瑞穂の国という表現がピッタリな日本の水田風景は穏やかで美しいものです。


この海の彼方から…










全国に広がる稲作地帯と、そこで培われた米”の文化。

永く搾取され困窮した農民の時代を終えて、さらなる純米の産み出した近世の日本。

清らかな雪解け水のように豊かな河川と米のコラボによる清酒”は芸術的です。

そして純米による酢”は、欧州のワインビネガーなど敵わない世界一の品質でしょう。

米作のもたらした芳醇な産物は無数にあります。

現状の米作軽視は、そうした日本文化を崩壊させかねないと考えています。



新米の季節が来ると、縄文末期から弥生時代への変遷と民族や文化の衝突などを想い

古代から現代まで悠久に続いてきた日本列島の歴史と人間の綾なす営みを知ります。



弥生ってなに?!…それは『縄文時代』という自由と、『弥生時代』は国家管理の潮流

まったく異なる民族の衝突と融和の始まりでもありました。

最古の侵略から始まった大陸系民族の推移と混血の歴史観。












国立歴史民俗博物館  グッド! くりっく





円筒埴輪


比較的に早くから作られていたと思われる埴輪が『円筒埴輪』だと言われます。

起源を遡りますと、弥生時代の後期には登場しているようです。

主な出土から吉備地方のものが多く、当時でも儀礼(葬送)などに使用される土器が基本。



かなり特殊な成り立ちをしています。 

3世紀も終わる頃、初期の前方後円墳(箸墓古墳など)から発掘されている埴輪です。

高貴な死者の葬送儀礼があると用いられた壺などを指す場合や特殊な器台に特徴があります。










土師(はじ)氏が製作する古墳墓、そして人型などへ変化していく埴輪の意匠の初期形態。

古代の豪族だった土師氏は、出雲の国より天皇が招いた野見宿祢を祖先とする氏族。

日本書紀の伝承にも登場しています。

三ツ塚古墳がある道明寺の一帯(大阪府藤井寺市)は、古来土師の里とされ…

彼らの本拠地として百数十年に渡り栄えたようです。



こうした埴輪は、元来は土器の壺を載せて使う器台。

それが古墳では並べながら配置するのが一般的。 ですからシンプルな円筒形をしています。

胴部は数段に分けられ、四角形または円形にした透かし孔が特徴的です。

標準の円筒形”と朝顔形”をした円筒埴輪、特殊なものは鰭付円筒埴輪などでしょう。









この大きな石は、2~3世紀か弥生時代の終わり頃とされています。

不可解な曲線と直線で表現された謎の物体?。

顔面と弧帯文を彫刻された謎の岩

弥生晩期から古墳時代の初頭には様々な物に?こうした模様が描かれていたようです。

なにか呪術的な意味を持ち、病魔などに憑かれた者を救うために祓いの儀式が行なわれた


それとも、別の異質な何か?を目撃した彼らが残したのか。

巨石信仰との繋がりもあるかもしれません。



岡山県倉敷市 楯築墳丘墓から出土  鯉喰神社蔵











銅鏡を国内生産するようになったのは、ハイテク導入に匹敵する意味合いでしょうか。

イノベーションは常に大陸から…それが弥生時代以降の日本の在り方。




直弧文帯縁内行花文鏡、彷製内行花文鏡、内行花文鏡など我が国でも複製が作られました。

後漢時代の中国でよく発見される鏡の文様です。







こうした銅の原材料など資源があった日本列島。

最古の金属器マテリアルとしては欠かせません。

後に巨大な奈良の大仏を造り上げた日本民族のメンタリティー。

世界最大級の墳墓を造成し、大仏を造り、昭和になると巨大戦艦まで建造していく情念。



原始の神々を駆逐し、旧民族を蹂躙しながら…蓄えたチカラで大陸に侵攻を繰り返す。

領土の拡大も全ては…大陸での勢力争いに敗れた謎の氏族に受け継がれるテーマか?。

昭和の世界大戦で尽きた野望も、経済力でアジアに台頭する勢いに復興。

いままた中国と対立姿勢になりかねない危機を孕んだ国際情勢への懸念。

すべては古代から秘められた怨念なのでしょうか?。





4世紀頃の奈良県 新山古墳(前方後円墳)から出土した銅鏡は総数34面です。

明治に発掘された竪穴式石室からは、中国製や日本製の銅鏡が多数…

腕輪型石製品、金銅製帯金具、装飾品の玉類など大量の遺物が発見されています。












長持形石棺


群馬県伊勢崎市お富士山古墳(5世紀)所在の特徴は?

近畿地方で見られる、大王陵級の石棺と酷似した形状をしています。

それは…つまり大王陵などの石棺を造った石工が東国の群馬にまで赴いたということ。


両者のリーダーは古代社会で権力も強大な同盟関係を結んでいたのかも知れませんね。










石棺の大きさから偉大な人物と考えられます。 これは相当な重量なのでしょう。

太く大きな突起などは、木材を使い担いで搬送するための役目でしょうか。








樹木や草など植物と違い、自然石”は古代に於ける不朽の材料です。

エジプトのピラミッドを見てもそれはあきらか。

あの高温と乾燥の気候でも数千年以上…残っているのですから。



世界の文明圏を眺めても、大昔から『』は朽ちない天然のマテリアル。

むしろ現代社会のコンクリート製ビルディングのほうが、先に崩壊するでしょう。

そういった意味でも自然のチカラは素晴らしい。












宝塔山古墳横穴式石室


群馬県前橋市総社町所在の『宝塔山古墳横穴式石室』1/5縮尺模型。

宝塔山古墳墳丘は総社古墳群の一画にあり、7世紀の末に造成された古墳でした。

形状は四角い方墳で東西辺が49m、南北辺54m、高さは12mになりますが

このスタイル(方墳)では群馬県内で最大級となります。










切石切組積みをしている両袖型横穴式石室”が特徴です。

内部は3室に分かれて、外の羨道を通り前室から玄室に繋ぐ複室構造(全長は12m以上)。

玄室”の入り口を見ると設けられた玄門”は高さは2m超ほどあります。

そこから奥壁まで幅も長さも3m前後…さらに長方形の前庭部を用意しています。

(精巧な模型ですから、覗いたら想像しやすいですね。)









石室を構築するのは切石で『輝石安山岩』や『角閃石安山岩』が積み重ねられています。


石棺が安置された玄室の奥と天井石には、一枚岩の巨石で造られているから驚きです。

壁面の痕跡からは、漆喰を塗布したらしいことが解ります。


古代の権力者は、穏やかに黄泉の国へと旅立てたのでしょうか?。














埴輪のハニワ


前述の円筒埴輪と象形埴輪が主な分類といえるでしょう。

なかでも形象埴輪の分類では、家形、器財、動物、人物埴輪など4種が殆ど。

土師氏により製法が広がりながら3世紀から姿を現して、前方後円墳の終わり…6世紀後半

になりますと造られなくなりました。


紐状の粘土により積みながら中空の埴輪の構造が仕上がっていきます。

埴輪は素焼きですが、表面に顔料(ベンガラ、泥絵の具)を塗ることもありました。

傾向としては、畿内の古墳では赤褐色のものが見られます。

遠い東国では彩色も変わりました。









背面の写真パネルには主な埴輪の分類がされています。



上段が『栃木県』の埴輪、下段が『茨城県』の埴輪になります。

…というか、ハニワ?のような表情の人は周囲にもたくさん暮らしていますよね。










帽子を被る男子の埴輪(左側)、振り分け髷で刀を差した男子。


円筒形の埴輪から、人や動物~様々な器物の形状を考え出した土師氏は天才かも。

各世代ともに優秀な人がいたのでしょうね。

縄文土偶の衰退から…大和朝廷(新勢力)の象徴のひとつ古墳の埴輪

いずれも葬送の儀礼から切り離せないところも注目すべき点でした。










中国の兵馬俑”もシーファンの力を表す典型的な死後の兵力なのでしょう(秦の始皇帝陵)。

まるで為政者の権力や王の生前の偉大さを誇示するかのような模造や副葬品。


しかし、墳墓の大きさや面積などの規模は日本が世界一になります。


それにしても埴輪のデフォルメは最高ですよね。

まさしく大陸系の顔立ち、弥生人と呼称される人々は広義でアジア人なのでしょう。

韓国人女性も美しいですね。










古代ギリシャ神話では、パンドラの箱の逸話があります。

これ実際は『』が正しいそうですね…。

弥生式土器のように、効率と機能優先の壺”が渡ってきた(侵略)災厄が撒かれた世界。




元寇では再び侵略されて…秀吉の残虐な朝鮮出兵、大東亜戦争で大陸への侵攻開始。

この愚かしい怨念のループは、中東やインド・パキスタンなどの民族紛争と同レベル。



まさに、お日様が頼りの農耕文明とは真逆に、日和見に生きる日本人にとって平和とは?。

縄文時代から…原始のの如き熱い衝動と自由はどこに消えたのでしょう。


その両者の賢明な部分を重ね合わせた未来像は見出せないのでしょうか?。


太陽の下で公平に慈しみ育むことは『仁』ともいえます。


誰もが善きことだけを学べば良いのではないですか。











自らの意志”や魂魄”まで欺瞞という名の粘土で固め、生きた副葬品と化した現代日本人。


善きことを高めあい、恥ずかしくない立派な人間を目指すべき魂の憲法がある。

清涼な風のように生きる清々しさ。 些細なことに挫折して嘆いて一生を終わる寂寥。

どちらを選びますか?


当然ながら選択肢は弥生時代にもありました。




理想を抱いた渡来人もいたはずです。






日本列島は狭いですが、善きことを守り育てる理想的な土壌でもありました。



明るい気持ち笑顔で共存しましょう。




さて、隠さざる小国の日本を学びに~さらなる歴史の見学に行きましょうか。






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