地球史に遺された足跡を追うとしたら
この夏休み、訪れた場所を紹介していたら秋も深まる神無月。
倭では…八百万の神々が出雲に戻るという季節、台風という風の神様も接近中です。
自然界の巨大な力に怯えてきた人類にとっての畏れ、神格化された事象の数々がある。
6500万年前に滅んだ恐竜たちは…いまの私たちよりも大きな月を見ていたのです。
巨大な肉食獣は、生物進化の頂点でもあったのか。
爬虫類が闊歩する中生代白亜紀の地球、歴史には竜の化身の如き神が存在したのか…
まだ小さな哺乳類の祖先は、捕食されまいと地を這い回るしかない時代。
すでに歴史という大河の奔流は…銀河へと注がれていたはずです。
悠久の時は流れ、進化は別の主役を用意し人類の栄華は花開きました。
千葉県佐倉市に位置する『国立歴史民俗博物館』は、日本を知るためのミュージアム。
まずは日本のあけぼの
国立歴史民俗博物館

さて、前回までのあらすじは…

学術的な分類の枠で、縄文なのか弥生なのか?大きな違いがあるとされてきました。
企画展示の 『弥生ってなに?!』 には答えがあるかもしれません。
(青森県の砂沢遺跡で発掘された特異な土偶。)
これは素晴らしい眺めです。 展示内容で最初に出会うのは土の生み出す太古の芸術。
全国各地で出土した縄文土器の数々を配置しています。
なんの驕りも…名誉欲もありません、もっとも自然に倭人の想いが創造した器です。
大陸から離れた地形、永く閉鎖された列島の住人が手で形成していく独自の意匠。
誰の真似でもない美意識、これより高い芸術性があるでしょうか。
ただ『生きる…』 狩猟や採取中心の人間たちが野で素焼き、平凡な暮らしの道具。
保存したり、炎で煮たり、中にはいまだ解明されていない原始信仰の象徴と思える土器
新潟から南下した地域の出土品『火焔土器』は、特異な意匠に秘めた謎も縄文の最高傑作。
大きさも様々、縄文という言葉の由来となった縄目の模様など素朴な彼らの命の芸術です。
現在も日本では盛んな陶器の製作。 大地がもたらした芸術のルーツがあります。
秋…山野の実りを摘んだ縄文人は、木の実などを貯蔵すべく土器に入れたのでしょう。
日が昇り沈んでいく。 自然がもたらす糧だけを享受する暮らしが培った器の美。
ああ、これがもし私の部屋のコレクションなら…なんて美しいのでしょう原始の息吹。
是非レプリカでいいから飾りたいです。
現代人に較べれば明らかに小柄な縄文人、顎関節や骨盤にも違いが見られます。
縄文人と弥生人の骨格にも明確な違いが表れているのです。
土偶は語る…
茨城県稲敷市広畑貝塚より出土 (岡山大学考古学研究室蔵)
推定約4000年前のものですが、どれも直立まで出来ることが見事ではないですか。
立てられない土偶も多いものの?そうした置き方が求められたという事実。
東京都八王子市宮田遺跡から出土した土偶。 何を表しているのでしょう?。
(原品で本館蔵)自然界の精霊?それとも神?。
こうした異形の土塊…は、何を象徴するのでしょう。
大半は定説通りで暮らしに関わる事物を抽象的に表したもの…
また、これらの土偶を意図的に破壊したり埋めてある場合が多いことも特筆できます。
もしかしたら、その用途には…怪しげな姿に?病の魔物をイメージして
呪術者が病人の穢れ(症状を看て)を祓おうと乗り移らせると壊して埋めれば回復する。
…そんな原始的なイニシエーション(儀式)があったかもしれません。
壊された理由には、弥生時代に渡来人が先住部族の神を駆逐する意味があったかも。
土偶は縄文時代を中心に広く分布する謎のアイテムなのです。
右は、神奈川県厚木市林王子遺跡から出土した土器ですが、表面の造型は土偶のよう。
(厚木市教育委員会蔵)こうした多彩な意匠も魅力ですね。
果たして?どのような役割で使用されたのか。
中央は、山梨県笛吹市中丸(黒駒)遺跡出土した土偶。
(原品は東京国立博物館蔵)まだ多くの土偶が各地に埋もれたまま眠っています。
古代の呪術や祭祀の道具、解けない謎だらけのメッセージ。
八ヶ岳西南麓の標高1070メートル付近から出土した縄文中期の遺跡。
長野県茅野市尖石遺跡から出土した『立像土偶』は27センチ、重さ2キロ程
(茅野市教育委員会蔵)女性らしい容姿から縄文のビーナスとも呼称される土偶です。
霧が峰には黒曜石の産地もあり石器の宝庫。 集落は繁栄の跡が偲ばれます。
推定約5000年前とも…
近年の説では、縄文時代は1万2千年どころか…それ以上の長さだともいいます。
日本列島周辺の気候は温暖で、亜熱帯に近い状態だったとも。
八ヶ岳南麓の標高770メートル周辺にある金生遺跡。
山梨県北杜市金生遺跡出土の『中空土偶』は高さが23センチ程。
(北杜市教育委員会蔵)
縄文晩期の集落跡、どうやら竪穴式ではなく平地住居跡が見つかります。
単なる集落というより祭祀のための土地かもしれません。
背後には…青森県つがる市亀ヶ岡遺跡出土の有名な『遮光器土偶』(東京国立博物館蔵)
目を強力な太陽光線から守る機能をもつバイザーやサングラス代わりの道具であるとか
それとも異界の神々そのものを形にしたのか?。
近年、東北エリアにまで巨大集落跡が発見されるようになり…その実像は神秘的です。
この珍しい丸いもの…どうやら土製の耳飾り?と考えられている物なんです。
かなり重く大きいので、これを装着するとなるとピアス?どころか痛そうです。
(これは変わった土塊で珍しいでしょう。)
当時の女性が付けたら、想像できるのは資料写真のような姿に。
これは耳たぶに孔を開けて広げなければ無理です(麻酔もなしに)。
あまりに痛そうな道具なんですけれど、確かに海外には大きい骨などを装飾にしている
アフリカやニューギニアの部族が紹介されることもありますから。
(これは~れきはく以外の資料写真)
そして、この巨木の模様は!
能登半島にある真脇遺跡から出土した縄文時代の祭祀場に立てられていた複製。
真脇では太古のイルカ漁が行われた痕跡など、新発見がニュースになりました。
独自の形状が珍しい、魚や鳥をモチーフとする土器なども展示してあります。
真脇遺跡 環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)

それは古代人のペルソナ
縄文時代の土面…それは粘土や木、貝殻などを材料に作られています。
人は仮面を被ることで変わるのでしょうか。
憑かれたように死者や精霊になりきる縄文の呪術者、静かな月夜のマツリで踊る…
そんなエクスタシーの中で幻視する未来、お告げを託宣する。
炎の周りで踊狂する真夜中…力尽きるまで。
これらは、日本列島の地図に表す各地で出土しています。
そこには彼ら縄文人の集落がありました。
縄文人の平均寿命は…せいぜい平均して35~6歳とも言われました。
栄養も少なく、医療もない古代社会では無理もない生涯でしょう。
私たちには想像もつかない過酷な毎日を生き抜いていた。
この同じ列島の地上で…我々の感じられない何かを感じ取り
自然や精霊と対話していたかもしれません。
石刀も…打製石器、天然の黒曜石を素材にしています。
これで十分に魚の鱗をとったり、内臓を出したりするなんてことも出来ます。
石器、石槍や石斧などバリエーションが様々。
木と組み合わせることで多目的に使えるのですが、黒曜石は綺麗な石ですよ。
縄文晩期には木や皮などを素材にした器も作られ、漆などを塗って仕上げられています。
生活に役立つ道具や住居など、私たちの概念よりも縄文の文化は高度ですね。
そうです、最新の情報では紀元後3世紀頃からの弥生時代も…さらに以前から始まるとも。
稲作などの原始農法も縄文末期には行なわれていたという新設も定着してきました。
赤い色の古代米なども炊いて食べてみたいですね。
近年の研究では、縄文時代の始まりは…もっと旧い時代からだといいます。
新発見がある度に歴史は塗り替えられますね。
縄文と弥生、その時代区分はますます不明瞭なことになってきました。
水田を耕し穀物を保存する弥生式土器を作る…だけでは説明しきれない。
そもそも上陸した場所居は何処なのでしょう。
九州北部だと信じていたはずが、広範囲に水田跡があり岡山県にも3000年以上前の痕跡が。
しかも東北方面にまで水田の耕作の定着を裏付ける痕が見つかり…
稲作の伝播が古いのか、それとも日本列島にも独自の水稲農法があったのかも。
弥生時代とは大陸人の侵入とともに伝播していく土器などの文化の流れを示すのか?
最大の違いは縄文人には所有という意識が希薄であったことですね。
対して弥生人と呼ばれる人間たちは、領地や資源などの所有欲により争いが絶えなかった。
先住民である縄文人の領域も脅かされ、文化の衝突は避けられないようですね…。
縄文人や弥生人の巨大集落にも、こうした集合住宅もあったということで模型が展示されます。
現在も南米アマゾンの奥地に巨大な家を造る部族がいますから。
(れきはく…のミニチュア展示模型は精巧な作りで、製作者は神業の持ち主でしょう)
東京都文京区弥生にある遺跡の貝塚から土器が発見されたのは1884年(大正17年)
発見された地名から『弥生式土器』と呼称されました。
弥生式土器が使われ始めた(定着する)時代を境に分ける定義が一般的なのでしょう。
それとも亜縄文時代などという新しい呼び名で分類する日が来るかもしれません。
貴女の暮らす街、そこには太古の住人が生きていました。
そんな生命の絆や連なりを感じていただける歴史に博物館で触れてみる機会。
これからも人の想いが歴史を紡いでいくのです。
縄文”と弥生”の境界は…三度変わる。
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