お城のある景色は、
まさに…その景観は会津の城、むしろ陸の巨艦?ともいうべき風格。
旧表門前にある稲荷神社。
至徳元年(1384)に、芦名直盛の東黒川館築城に際して勧請しました。
そして寛文6年(1666)、保科正之は、これを三の丸から本丸に移築したのです。
明治に鶴ヶ城を取り壊しが始まり、城内の稲荷神社は御神体の合祀安置となりました。
いまでは鶴ヶ城稲荷神社となり城内の帯郭に再建されています。
ここは城の三の丸があった場所、いまでは博物館の敷地に立てられた詩碑。
秋月 悌次郎は幕末の文政7年7月2日(1824年7月27日)生まれの会津藩士です。
名は胤栄といい、字は子錫で号は韋軒。 明治維新後には胤永とも名のりました。
明治時代の教育者ですね。
幼くして藩校の日新館に学んだ彼は、南摩綱紀と並び秀でた人物として知られています。
(南摩綱紀は、同じく会津出身の漢学者)
江戸に遊学したのは天保13年(1842)、私塾や昌平坂学問所で学び、また薩摩や長州諸国などを訪れています。
会津藩主である松平容保の側近としても仕えており、文久2年(1862)に松平容保が幕府から京都守護職へと任命されてすぐに公用方に任命され上洛に随行しました。
薩摩藩士の高崎正風らと計画し、会津藩が薩摩藩と結託した政変8月18日の宮中クーデターを扇動しています。
会津藩兵を率いて戦った実質的な指導者でもありましたが、後に佐幕派の猛反発を受けて慶応元年(1865)には左遷され…蝦夷地の代官を命ぜられます。
戊辰戦争後は…会津藩の軍事面でも要職就いていたため猪苗代にて謹慎させられ
明治元年(1868)に、戊辰会津戦争の責任を問われて終身禁固刑になりました。
特赦により赦免されたのは明治5年(1872)。同年新政府に左院省議として出仕して、熊本大学の前身であった第五高等学校などの教師になりました。
第五高等学校に於いては、あの小泉八雲とも教壇に立ちました。
晩年は東京で暮らしながら、明治33年(1900)に75歳で死去されています。
人々が讃える人格者だったそうです。
たくさんの優れた人物が時代に翻弄された幕末。
城郭は…まさしく時の中を航海する船のようですね…。
『花は桜木、人は武士』 …の言葉にみるように、花ならば桜花が最も美しい
人であれば潔い生き様の武士道を偲ぶ言葉がありますね。
春には咲き乱れる城郭の桜、しかし会津藩政の時代には現代ほど桜の植樹は無かったそうです。
城とは、人々の想いが創り上げる総合芸術?かもしれません。
さて、城から離れて…ここは会津武家屋敷、家老西郷頼母の暮らしていた邸宅が再現された施設。
屋敷も調度品も当時を詳細に再現しようと苦心の跡が見られます。
こうして落ち着いた日本庭園が美しい四季の彩りを描いてくれます。
磐の配置や植物相も穏やかな佇まいに幽谷の霊気まで感じさせるようです。
立派な構えの日本建築がお屋敷らしいですね。
伝統を重んじる会津地方には、こうした建築もまだまだ残っていることでしょう。
ここでは、お客様の記念撮影をしています。
コスプレ用の衣装が用意されていますね。 経験者の皆さんご覧になっていますか。
新撰組の羽織もありますよ。
衝立や床の間の掛け軸など、いいですね日本間の落ち着きは。
フローリングの床に慣れると、畳が快適そうに見えるもの…
会津へ旅した頃の季節は、ヤマブキの花が咲き誇っていました。
やんわりとした黄色い花が綺麗ですね。
さらに屋敷の中を歩いていくと、再現された藩の精米所を見学できます。
二世紀も前に建てられた藩米の精米所です。
その当時に白河藩で使用されていたものが移築されました。
動力には水力が利用されたエコロジーを絵に描いたような仕組みでしょう。
一日に四斗俵(約六十kg)の玄米を十六俵ほど精米していたそうです。
ゴトン…ゴトン…と音が響いている精米の~からくり仕掛けが面白いです。
木材を有効に使い、無害な水力で動くという知恵を生かした技術。
旧白河藩の小峰城址と周辺の略図が掛けられています。
江戸時代最期の華 …幕末の会津に咲いた尊い文化の見事さを伝える建物。
もしも?、そのまま時代が続いていたとしたら、いまでも戦の無い優しい武家社会が息づいていたのでしょう。