家老屋敷は武家社会のテーマパークにされました。
33歳の若さで会津藩の家老になった西郷頼母もまた…時代の激流に翻弄された人物でした。
会津若松で、鶴ヶ城のほかにも歴史の産物を見学できる観光施設ですね。
彼は、姿三四郎のモデル?
武家屋敷内には柔道の銅像があります。
西郷 四郎(さいごう しろう)は、1866年3月20日(慶応2年2月4日)に生まれました。
彼は、会津藩士である志田貞二郎の三男でした。 3歳で戊辰戦争を逃れるべく家族で新潟県の阿賀町に移住していました。
16歳のとき西郷頼母の養子に迎えられ、福島県伊達郡霊山町にある霊山神社の宮司として奉職していた頼母が後見人になりました。
以後、その青春は会津で過ごし、格闘技である柔術は西郷頼母から手ほどきされたそうです。
明治時代を代表する日本の柔道家で、あの講道館では四天王の一人です。
富田常雄が書いた人気小説『姿三四郎』のモデルだと言われています。
いまの世でも強くて小柄の柔道家を評して『…の三四郎』と呼んでいるのは?
西郷四郎をモデルにして書かれた『姿三四郎』の影響なのですね。
彼自身は体格に恵まれた訳ではなく、身長が153センチ(五尺一寸)体重は53キロ(十四貫)だったそうです。
その得意技は、必殺の『山嵐』なのです!。
おそらく疎開先で、幼ない頃から漁船の手伝いをしながら不安定な船上での仕事で体得した足指の粘り強さを生かしていると考えられます。
柔道で足を刈る~鋭い技の切れは格段に優れていたそうですよ。
あの嘉納治五郎から『ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ』と言わしめました。
決め手は山嵐!!
忠孝の精神を尊ぶ会津のスピリット。
身分制度など関係なく、真にお仕えしたい器量の人物に会えれば幸せかも。
再現されているのは、君主や家老などという高位の立場に就く武士の日常生活を描きます。
側近の小姓などがいますから?お殿様でしょうか。
各室を生かして、様々な武家の生活様式が紹介されています。
お殿様の喋り方は、『おもしゃぐね~』(流して聞くだけで方言が覚えられる教材かな^^)
格調高い武家屋敷の様子は、大河ドラマのセットとは違います。
(とりあえず本物なので重厚感があります、ハリボテはありません^^)
一世紀以上前は、こうした様式の建物だったのですね。
肘掛に手を置いて…『くるしゅうない』(標準台詞)とか
『だげんじょ殿様、まずは食ってくなんしょ』(会津方言)…とか、
みなさんの暮らす邸宅も、内部は似ていますか?。
『広ぇ~庭だから、花畑をこしぇえる(造る)には都合がよいかも』(?)
奥一の間
そこは…奥方や姫君が暮らす秩序ある?チャイルドルームでしょうか。
いづれも書院造りの様式が、落ち着いた佇まいを醸し出しています。
こうした立派な着物姿、いまでは良家でも見ませんよね。(綺麗ですけど)
いきなりカメラを向けたら、奥方様から『無礼者!!』と一喝!。
土蔵の中に…どうぞ
敷地内には、会津周辺の文化を伝える再現した展示物がたくさんあります。
かなり大がかりな作業所の土蔵などもあります。
とりあえず 『はいらんしょ(入ってください)』
白河藩にて使用された米の精米所も移築して再現されています。
究極のエコロジー、いまでも水車は健在です。
臼ひとつあたりで、約一俵の米を一日がかりで精米していました。
大部分は木製ですから、精巧な歯車など仕組みが一目瞭然。
エネルギー危機が来ても、なんとか凌げるのでは?と思うのですが。
ローテクは侮れません、大切な先人の知恵ですよね。
『にしゃは なに いっちょめこくだ (お前は、なに生意気いうんだ)』
…と叱られそうですが。
山川捨松
彼女は、万延元年(1890)生まれ、大正8年(1919)まで生きました。
会津藩の家老、山川尚江の末娘として誕生し、幼い頃の名は咲子さん。
明治4年(1871)に、日本初の女子留学生として津田梅子さん達5名の女子とともに渡米しました。
名門の女子大バッサーカレッジで11年もの留学生活を経験しました。
(生物学に興味があり、得意科目だったそうですよ)
明治15年に帰国すると、その経験や堪能な英会話を生かし鹿鳴館などで華麗に日米親善の先駆者となりました。
後に日本陸軍の大山巌に嫁いで大山捨松(おおやますてまつ)となりました。
完成して間もない鹿鳴館で結婚披露宴が行われたそうです。
大山巌も欧州仕込みのジェントルマンで意気投合、彼女は明治社交界のレディーとなったのです。
さすが会津の女性は豪の者
戊辰戦争の時代には、まだ数えの8歳です。 咲さんも家族と籠城することとなりました。
女性として、大人と一緒に炊き出しの手伝いから負傷兵の手当てまで奔走しました。
決死の防衛線は、ある意味で女性自衛官の元祖。
女たちも命懸けです。城内に砲撃で着弾した焼玉式焼夷弾があると一斉に駆け寄って強制冷却で炸裂を封じようとしました。
(焼玉弾は炉で高温に焼いてから飛ばす砲弾。 女性達は濡らした布団を被せて炸裂を防ごうとした危険な『焼玉押さえ』をさせられました。 この作業で彼女も酷く負傷しています。)
勇敢な会津の女性に敬礼!
『やんだおら~(やだ~恥ずかしい)』、 どこまでも慎ましく芯の強い魅力的な人々です。
苦難に負けず優れた人材を輩出した会津の地。
どこで生きていこうと、大切なのは心意気!