天下の名城、『鶴ヶ城』が聳え立つ会津若松。
お城を出て、郊外を東に向かいますと(県道325号線)、さる…お武家様の屋敷があります。
こちらも再現された貴重な歴史ミュージアムパークとして復活しています。
会津武家屋敷
会津藩の家老である『西郷頼母』の邸宅の広大な敷地を中心に重要文化財など会津の歴史を知るための資料館などが陣を連ねます。
入館料は、大人800円、小学生450円ですね。
AM8:30~PM17:00 (12から3月は、9:00~16:30)
本来の西郷頼母の邸宅を再現した際に、敷地内には数々の歴史的な建物や資料を設置した総合施設です。
福島県重要文化財である旧中畑陣屋などがあり、徳川幕府の直参旗本、松平軍次郎の代官所として中畑村など七ヶ村を管理していました。
数奇屋風茶室、藩米精米所といった歴史的な建造物による屋外博物館を形成しています。
江戸中期となる代表的な和建築として造られた家老屋敷で、各部屋の様子は蝋人形により再現シーン。
会津や福島の名品を揃えている総合売店や会津の伝統的な郷土料理が味わえるレストランなども併設されています。
見応えありますね!
西郷家は会津藩松平家譜代の重臣として代々家老職として務めた家柄です。
1700石取りということで、屋敷は2400坪建築物の面積は280坪にもなります。
邸内の部屋は38室、およそ328畳。
欅(けやき)、檜(ひのき)、杉などを用いた和洋建築は、当時の武家が暮らしていた様子を知る資料展示館となっています。
幕末といえば、穏やかな会津が外敵から侵攻を受けて若松城下は地獄の焦土と化した時代。
(その遠因は、京都守護職を拝命したことに遡りますが。歴史は運命の荒海、朝敵の汚名を着せられ会津は討伐されることになりました。)
当初より守護職の任を避けるべく強行に反対したのは西郷頼母のみ、君主である松平容保と頑迷な家臣の意見が罷り通り…このような破局に陥った会津藩。
こうなる事態を見通していた彼の箴言は常に否定されてきたのです。
恭順による藩の存続案も一蹴されてしまいました。
会津戦争の勃発、家老である西郷頼母は、鶴ヶ城にて壮絶な籠城戦に身を投じていました。
西郷家の妻と家族は、武家の模範ともいうべき忠孝の精神を育む名門です。
新政府軍との死闘の中…他者へ少しでも負担にならぬようにと、城内に非難することを拒んだのです。
実際、5000人をも超えたという籠城した人々の過酷な環境を顧みて、危険な城外に留まるのは死も同然です。
(それでも責任者の一族として、藩に対して迷惑をかけまいと振舞えますか?)
決死の状況でも我が身より他者を気遣い、最後まで誇りを失わず凛然と生きる。
不当な暴力に対して最期まで屈しない武家の精神、己に厳しく生きるという生き様の美しさ。
こう書くと即座に反論がありそうですが、命を軽視する現代人が論争する軽薄で呆れた内容と甘えた平和論に較べれば正論だと私は思います。
貴い考えには新しいも古いもありません。
『堕』の名の下に、あらゆる伝統や律することを棄て去った現代人は歪んでいます。
同じような立場になった時、卑怯な行動に出て他人を犠牲にするか、命乞いして裏切りあうような人間達が…それを自由なんだと錯覚して生きる日本。
平和な世だからこそ、現世利益と呼ぶ穢れた侮蔑や卑劣な心の殺し合いよりも…
せめて価値ある武家の精神を倣うくらいでなければいけないのでは。
現代の私達には足りないことばかり…
善きことを学ばず、無軌道だから精神(こころ)まで負けるのです。
江戸時代の商家では、娘が生まれたら躾は武家に奉公に出して学ばせよと言ったとか。
商人など経済力の豊かさを得た時代でも立派な民衆は、武家の貴い心得から学ぶ価値を理解していました。
同じように生きようとは申しませんが、精神(こころ)あっての人間ですから。
そこには、学ぶべきこともあるのではありませんか。
慶応4年8月23日、新政府軍は火砕流の如く、会津城下に進撃を開始しました。
新政府軍の兵士は、農民を中心に訓練を施した兵卒であり。武士社会の精神面の高さもなく思慮も浅く、ただ兵器を抱えた殺戮者の群れと化した。
恐怖から心迷う醜さ、女子供や老人まで手にかける非道、名ばかりで俄仕立ての暴徒に等しい。
他者の生命に気を配る余裕などなく、指図のまま攻撃するソルジャー。
(現代人も精神性の欠如から、高価な道具を貰い…他者と傷つけあう情けなさ。)
たとえ21世紀であろうと、心が無ければ…ただの殺し合い。
頼母の妻である千重子は、後継者である11歳の長男…吉十郎を父の元に登城させるべく促します。
この送り出した時の覚悟、母として…どれほどの心痛だったでしょう。
人間は弱き者、それ故の精神の気高さなのではないでしょうか。
信仰心も武士道も、愚かしい人間が禽獣に悖らぬための心得なのですが。
遂には、西郷邸に残った女性達にも…蹂躙する狂気の戦火が迫ります。
母と、二歳の幼女、十六歳の長女と十三歳の姉妹、七十代の老女など…
災禍の如き戦争と言う暴力の前に、義のために命を絶たねばならなかったとは…。
いかにしても辱めはうけない。
決して見苦しい生き恥をさらさないように…妻の千恵子は三十四歳…
なお、母や妻子など幼子まで一族の21人は、西郷頼母の登城後は死に装束を纏って自邸で自刃したのです。
悲劇などという言葉では到底あらわしきれない会津藩の犠牲者は3000人にも及びます。
資料館には、女性達の最期のシーンが再現されています。
逸話にありますように、西軍が屋敷に入ると…既に多くの女性が自害し死に果てていました。
唯一息があった若い娘は…侵入した兵士の気配に、『敵か…味方か…』と尋ねたといいます。
新政府軍の士官は、礼節ある者は娘の運命を哀れみ『味方である』と答え、安心させたそうです。
そして苦しむ娘を楽にすべく介錯してやりました。
非業の最期を遂げた人々に…せめてもの救いがあればよいのですが。
なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ
辞世の句を詠んだ…妻、そして家族の壮絶な最期を知った西郷頼母も不幸な人生を送りました。
争いは、多くの人生を破壊し不幸にします。
いつの世も苦難で翻弄され、傷つき陵辱され命を奪われるのは弱者ばかり。
日本の有様は、低俗な意識の人間が、清流をドブ川にするような暮らしをしています。
何も無い幕末ならまだしも、この平成に争うなど救いようのない姿。
はるかに愚かしく、賎しい生き方しかできない現代人の哀しさ。
清流には強く健康で大きな魚が棲んでいます。 汚れたドブ川には腐敗臭と餌にもならぬミミズが棲む。
この国を清流にするも…干上がるドブ川にするのも己次第であると思います。
政治家は、愚かな民衆の実態そのもの、合わせ鏡と言えます。
政治批判は、言うなれば国民の自虐行為の極みです。
いつまでも誰かのせいにして逃避するのは何故?
もし…貴女しかいないのなら、ご自身ひとりを律するだけで国家は昇華します。
つまり本質的に社会や国とは、そんな簡単なことなのです。
構えが少々大きくなり、自分を見失っているだけ…
人の心を失い、売僧(まいす)に票集めまでさせてはなりません。
そして、西郷頼母の屋敷は焼き払われ、灰燼と帰しました。
後に善龍寺には、縁者の尽力により、二十一人の墓が築かれました。
(歌碑も建てられています。)
朝、さわやかに顔を洗うように、正しく生きていくほど楽なことはありません。
政治と称する野菜売りが、宗教にまで票欲しさに商売替えしろといえば気の毒でしょう。
それでは宗教者が二心ありと疑われてしまうばかり。
国家は放射能漬の砂漠にして、ミイラになった死骸を相手に都会で大麻の畑作りでしょうか。
ひとりなら正常、集団では必ず大失態。
痛みを忘れ、100年や200年で良識を失うのは、国家レベルのアルツハイマーですが。
誰も犠牲にしないで済むように、過ちをさせない社会にしましょう。
いつだって誰かじゃなく、自分でしょ!!