むしろ…ここで希望の光を勝ち取ろう!!



白虎隊が自刃した場所は、参拝順路の⑤番目になります。


とても日当たりの良い斜面なんですけれど…哀しすぎますね。


明治元年(1868)の戊辰戦争 8月23日(新暦10月8日)に自刃した白虎隊。


新政府軍からの命令で、他の会津の人々や彼等の遺体は触れることも赦されず…


その身が朽ちてしまうまで…野に放置されたままでした。


それから…3ヶ月も後、心ある農民の手で妙国寺に運ばれ仮埋葬されました。











明治23年、この地に十九士の亡骸を移動して墓所と慰霊碑が立てられました。


彼等は悲壮な最期を遂げましたが…いまでも参拝に来る人々は絶えません。


ここには、京都や新潟から栃木など国内各所で戦死した若き会津武士の墓もあるのです。


皆…会津の子、ともに同じ時代を戦い抜いた仲間達なのです。


幕末にも沢山の才能ある若者の生命が失われました。


狡猾で卑しい者が権威を操り、同国人が争わされる愚かさだけが世紀を越え…


罪を重ねる時代は、二度の世界大戦を過ぎても…いまだに過ちを繰り返します。




白虎隊…に代表される悲劇と墓標の列、平成の今も民間人の犠牲は続いています。


いかに権威側の見識、質の大切さが問われているかですが。


盲目なる堕落の推奨と…罪過の黙認を平和と教えられた…民衆の果ては?











狛犬


ここにも霊獣の狛犬がおります。


玉珠を咥えた珍しい姿で、荒々しい雰囲気が独特ですね。


狛犬は、拝殿の右側が~阿形(あぎょう)で口を開いています。


(実は、お口の中に蜂の巣があるんですけれど、見えますか写真の正面右)










慰霊碑


慰霊碑のある場所には、これまで君主(松平容保)の歌碑やイタリアやドイツなど異国の碑なども…戦時中の日独伊3国同盟によるものでしょうか。


心ある人々からの慰霊の碑が置かれてきました。


この塔は、昭和3年に白虎隊の尊い精神に感銘を受けたというイタリアのローマ市民から贈られました。


石柱は赤花崗岩なのですが、あの地中海文明ポンペイの遺跡から発掘された宮殿の遺跡。


ベスビオス火山が大爆発して火山灰に埋もれた悲劇の文明都市から…


大鷲が翼を広げるブロンズ像が配置された円柱を見上げます。












文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め

古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り…

永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る
   …と刻まれています。






一部のメッセージや文は、第二次大戦後の占領軍に消されています。


戦争など決してしてはならない、そんな日本人の若者は凛々しく生きるどころか


愚かにも醜くイジメ合い、命を粗末にする顛末まで…。


生きたくても…死を選ぶしかない若者がいた哀しみを忘れた日本人。


衣食足りても惰眠を貪る愚畜となり、殺人が横行し、暴力を崇拝するものが政治支配を掲げる。


夢も希望も奪い取られ、悪徳を利益と教えられた中身の無い若者に命の貴さは解らない。


無気力さと俗悪な支配欲、今また…占領国が危惧していた通りの精神性に戻りつつある日本。









石燈篭

変わったデザインといえば、側の石燈篭には…カエルのよじ登る姿。

この火袋には鹿の模様などが彫られてますから春日大社の流れ、春日燈篭ですね。


元来、燈篭は寺の献灯なのですが、江戸時代になると神社にも二基一対にされます。


その昔…寺社習合されたことの名残りですね。










宇賀神堂


寛文年間(1661~1672)宇賀神を勧請して弁才天像を祀る社殿。

建立しましたのは、
会津藩3代藩主の松平正容です。


白虎隊の十九士の霊像が安置されています。











唯一の生存者となった、飯沼貞吉さんが語る白虎隊…最期の様子などが絵画として飾られています。








悲劇的な死を遂げた白虎隊ですが、人々の心の中で永遠に語り継がれます。