この戦闘(いくさ)には、なにひとつの義もござらん!!


新政府の樹立。 その野望を抱く者達は…いまだ多くのサクリファイスを欲しています。


鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868)、遂に徳川の世は終わりを告げる
戊辰戦争に突入。


軍制をフランス式に変えた会津藩は、精神論を活かした兵法に近代戦術を取り入れるべく改変を急ぎます。



四神獣の如き名の…玄武隊青龍隊朱雀隊白虎隊を年齢に応じ再編成しました。


(玄武隊は最年長です~50歳代)


享和3年(1803)、会津に文武の教育振興を目的とする日新館を設立しました。

(上士の子は、10歳になると日新館で学ぶのです。)

幼少の者まで含み、日新館で修学している年頃の少年を兵力とした白虎隊



そして藩の危急存亡の時、予備兵力の少年達までが実戦に投入されました。


会津での武士階級は、上士(士中)、中士(寄合)、下士(足軽)に分かれます。


白虎隊の構成は、士中の一番隊から二番隊。 寄合の一番隊から二番隊。


足軽の一番隊から二番隊など、それぞれ50名単位の武士による総勢340名にもなります。




前線で、白虎隊が装備する火器は火縄銃に等しい旧式銃しかありません。


(ゲベール銃、ヤゲール銃など前装装条銃、短銃身化した武器のみ)




新政府軍の主力装備に対し、旧式軍備が脆弱である事実を思い知らされました。



旧幕府勢力の中心に仕立てられた会津藩は強さの象徴であり、長州の恨み重なる仇。



それを叩き潰せば新政府軍の力を誇示できるというデモンストレーションなのです。





『兵器と人数だけ並べて、ハナっから人を見下してる傲慢さが気に入らない!』


まるで崇高な精神性打算の合理性の戦いです。


(弱い者虐めのつもりで噛み付いて、相手の誇りに逆襲され怯えた新政府軍)


世直しとは名ばかり、官軍の消耗品にされた兵隊の命と武器。


ようするに新政府の兵は使い捨ての駒にするだけ、ただのフーリガンですよ。



会津藩には既に劣勢を跳ね除ける武力の温存はありません。


配備された白虎隊も苦戦で満身創痍、藩主の
松平容保を護衛すべく一番隊が任務に赴き。

二番隊が援軍として急行した戸ノ口原の戦いでは圧倒的な敵の戦力を前に潰走することに。


果敢に戦うも負傷者、戦死者も出はじめ、8月23日…負傷した彼等は飯盛山落ち延びるしかありませんでした。


ここは白虎隊のような会津の子供達が幼い頃から遊び場にしていた懐かしい場所…


蹂躙された…愛する故郷や家族を護りたいから刀を抜くしかなかった。


誰であろうと、純粋な魂を踏みにじり穢すことは許されません。









飯盛山で最初に出会ったのは?飯盛さんて御方の邸宅(ほんと同じ名前ですね)


この坂道の途中には、子護地蔵尊があるんです。


昔も今も…子育てはたいへんです。

たくさん結びつけられた乳飲み子の前かけ、母親の愛情を感じますね。



子護地蔵尊に訪れて祈った願いは永遠ですから。







その色は、厳しい風雪で褪せたとしても…我が子への深い想いは色褪せない







さて、飯盛山の参拝には、185段からなる急な石段を登坂する正規ルートがあります。

誰もが、そこを目指して登る最適のコースが用意されていようとも!


しかし、私は敢えて言おうではないか



『人生も順路だけが…全てではないと』


ささやかに逆方向からアプローチしています(汗)。


楽々な観光産業の最新兵器(スロープコンベアーというエスカレーター?)に対抗する頑固者か。


それでもゴールは同じでしょう。


まるで 白洲次郎の…ジープウェイ・レターのやうだ。




ゆるやかな坂を登っていくと、鮮やかな朱色に塗られた厳島神社の鳥居が見えてきます。


初夏のような暑さ、緑豊かな森林に埋もれそうな背景が印象的です。










その左脇には、飯盛山の 霊牛神堂の祠があります。


御祭神は弁財天だそうで、山の不思議な名の由来は…風土記によりますと


『永徳年間 この社造作の始め  童女赤飯を牛に駄して来り

役夫に振舞い食えども盡きず  のち南へ行くこと数十歩にして見えず

その地を牛ヶ墓といい、山を飯盛山とよぶ… 』  



解析(^^)結果


つまり、このお社を造作し始めた頃、幼い娘赤飯を牛の背に持参しました。


働く人々を労い振る舞った赤飯は大量で食べきれず、皆は満腹になりました。


それから娘は南方へ歩き出すと…僅か数十歩ほど離れると忽然と姿を消した。



その土地は元来は、牛ヶ墓と呼ばれていていた場所。

以来、その山は…(飯を盛ってくれた山)飯盛山と呼ばれました…というとこでしょうか?


弁財天が人々の労苦に対して、娘の姿に変身して褒美に届けてくれたのは赤飯でしょう。


に牛というと赤べこ…のルーツでしょうか、死せる牛の霊を荷役として出現させたのかもしれません。


その伝説は、立派な超常現象のような昔話ですね。おにぎり








まっすぐに坂を登りきると、朱色の鳥居をくぐり…直後に堰を橋で渡ります。


境内には、
厳島神社の本殿が厳かに建っています。市杵島姫命を祀ります。 


芦名直盛が領主の時代に建立され、永徳年間(1381頃)に遡ります。


歴代の藩主にも崇敬され続けた由緒ある御社なのです。









戸ノ口堰


猪苗代湖の水を水源に、会津へと通していた戸ノ口堰洞門からの本流です。


天保3年、会津地方へと灌漑のために掘られました。


水田で稲作のため、そして鶴ヶ城の堀に注がれる清流なのですね。



すごい早さの流れで、とても冷たくて気持ちいい…


それ故に、涙のように悲しいのです。



上流は洞門ですが、撤退する白虎隊は…負傷した身体で150メートルもある穴を通り、ずぶ濡れになりながら飯盛山へとたどり着きました。









眼前には螺旋の回廊が特徴で有名な建築物、さざえ堂円通三匝堂)と

宇賀神堂(弁財天像)へ向かう石段があります。


あと少し…弱音を吐かずに歩かなくちゃ…









途中で弁天さま…にも会えますよ。












円通三匝堂(えんつうさんそうどう) またの名をさざえ堂(栄螺堂)といいます。


1796年に建立されました。  16,5メートルの六角三層ある御堂。

欧州ローマの建築にも匹敵するほど斬新な設計思想が施されています。

これについては後日、説明したいと思います。










まっててくれ白虎隊のみんな、いますぐ行くから!


大丈夫、いまだ城は陥落してはおらんぞ!