縄文12000年… とも、それ以上ともいわれる永い時代。




そこで暮らす倭人は、最も自然と共生していました。


東北も温暖な気候の中で、現在とは違う自然条件に恵まれていました。


縄文人の原始美術とも言える野生味ある土器や土偶が遺物として出土します。


どこまでも深遠な自然回帰の芸術感は独特な美しさがあります。


これは、注口土器(縄文時代後期後葉)… と名づけられています。




誰からも長く侵害されない特異な文化であり、また破壊されたために真相が不明でもあります。

あくまでも想像するしかない縄文のイデオロギーは神秘です。


彼等が祀る古代の神々とは…荒々しい原始日本の自然観そのもの…










弥生時代は、海外から入植した文化の奔流に吞み込まれる様子です。




狩猟から農耕へと…移り変わるだけではない侵略、懐柔と支配の歴史でした。

神聖な土地を巡り、各地で住民の衝突は繰り返されていたはずです。

神武の東征は英雄物語ではなく、農耕文化の定着は朝廷が侵攻した歴史。




古墳時代になると、支配した民衆を労働力として動員し巨大な土木工事に従事させました。




それは、野蛮人扱いの倭人を朝廷側の権威を象徴する墳墓の造成に参加させることで精神支配を推し進めていったと思います。



文化の融合(縄文人の精神性は否定されるだけですが)というより邪魔者として淘汰。



抵抗者の排除に、古代の神々は駆逐することが有効策であり合理性?。




縄文人が神と崇めてきた丘や山河や森林も焼かれ切り拓かれ名を変えられ…



切り崩して墳墓を造らせる(もちろん土着の縄文人を労働者にして)のです。




古墳を守る埴輪たち、四股を踏みそうな~力士像、大きな楯を持つ人の実直な面持ち。




大陸からの渡来人にも人生や夢はあり、日本列島は新天地だったのです。



(一説には、神武は大陸の勢力争いで敗走した王家と民族が渡来したとも…)




土師氏(はじうじ)という一族は、埴輪土器を作る工人集団の総称でした。



古墳の造成では工事の指揮にも携わるのが土師でした。











神話も伝説も支配者に都合よく改竄されるのが常。 



朝廷は倭人を率いたカリスマの影に怯えたのか… 敵対する意識や存在そのものを幾度も払拭しようとする試みがみられます。




神話の編纂による意識操作、『』の一族となることで威厳を放つ朝廷。




(文字すらない時代、倭人に語り継がれ人の心に残る指導者の印象は強い絆です。) 





この日本で独自に製鉄技術が確立したのは、5世紀とも言われています。





鉄は、熱く…そして強い




踏みふいごの付いた箱形炉(9世紀、南相馬市金沢地区)で操業の様子(左)



鋳造のため堅形炉は、たたらですね(同じく8世紀の状態を復元)。




砂鉄や鉄鉱石などの豊かな埋蔵資源から鉄器や銅器も造られました。




桓武天皇の在位した(延暦8年頃)時代は、蝦夷の討伐などに数万の軍勢を繰り出したのです。




果敢な東北の抵抗も鎮圧され、以後は見事な梵鐘も生産され、東北には朝廷が寺社を建立したのです。




朝廷にとっては、東北も支配と搾取の対象でしかありませんから。




こうして鉄の武器により多くの血が流されたのです…。










鋳造用に造られた堅形炉の跡から出土した通風管や送風管の残骸です。




(南相馬市金沢区 鳥打沢B遺跡1号製鉄炉)




高熱で融けた金属の成分に先端部分が塞がれてしまっています。










日本は平定され、大和朝廷の支配は社会形成の基盤となりました。


貧困や苦難、痛みと傷病や死に苛まれる民衆の意識は仏教(信仰)に傾注していきました。


国家政策にも役立つ仏教も朝廷から庇護され、指導者とは密接な関係を築きます。




奈良の地にある、東大寺大仏殿の本尊。大仏…盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)造像。




当時の聖武天皇による国家救済のプロジェクト。




天平17年(745)から開始された大仏の制作の動員数と資材となる大量の。 




こうして壮麗な開眼供養会(入魂する儀式)が天平勝宝4年(752)に施行。




(尊く価値ある大仏ですが、幾度も戦乱により中世や近世に焼失し補修されました。)



盧舎那仏坐像など、国内にも多くの秀麗な仏像が造られ、あたかも仏法の花咲く理想郷だったでしょう。




癒しと救世(ぐぜ)は、いつの時代も人々のテーマ












人々が帰依したバーチャルな信仰の世界は、上位自我である存在を認識し、一心に唱える仏の教えなど…


宗教美術を生み出す信仰は、逃れられない苦しみの裏返し。


人間は、いかにして生きるのか苦悶の中で問い続けた歴史…


儚い人間の命、飢えと疫病に苦しむ困窮した人々の布施により来世や今生の救いを願いながら法を説くしかない。


時を超えて過酷な運命に耐える東北の人々だからこそ一途に信心したのでしょう。


憎しみあったり、嫉妬をしない… 天の川のように美しい心でなくては…。












偉大な上人が修行し、教えを説きながら生涯を送る…

現在の日本人が想像すら出来ないほど過酷な時代を経てきたのです。


(信心深い人から見れば、無神論者にも等しい凡庸な私にも…伝わる厳粛さが感じられます。)

どうか、いかなる時も思考を停止しませんように。










古代国家の成り立ちすら忘却した…浮世は、鎌倉時代から戦国時代へ。


12世紀末から16世紀末となる中世は、武士が台頭した時代でした。


阿津賀志山の合戦(源頼朝の率いた軍勢が、奥州藤原氏を攻めた合戦)など


南朝~北朝方となる軍事衝突が勃発、侍が群雄割拠する争乱が民衆の暮らしを破壊した苦難が語られます。




信仰には懸仏(かけぼとけ)、そして石碑のような板碑(いたび)が立てられました。




中世の民衆が神仏に救いを求めながら暮らした信仰の形態が窺えます。










刻まれているのは梵字(サンスクリット語に由来する)なのでしょうか。




風雪厳しい土地柄、これなら風化せずに人々に伝えられる。




大分にある、熊野の磨崖仏(平安時代)があるように、自然石…岩とは悠久の語りべ。





朽ち果てない素材として…




信仰には関係ありませんが、古代の中国などで深山幽谷の秘境に分け入った修行者が偶発的に岩壁から露出した恐竜の化石などを目撃したら?




太古の生物や爬虫類の祖先だと知らないが故に、空想上の『』の骨だと思うでしょう。




(日本では、そんな露出している大型化石は見つかりませんが?)

そして中国の奥地で、こうした大昔の目撃例が架空の生物が存在したという証拠にされたかもしれません。


仏教が生まれたインドやアジアには、想像もつかない逸話もあるでしょう。









大切な仏典など、経文や重要な宝物を収蔵した高床式の倉庫は校倉造り




(唐招提寺や東大寺大仏殿の正倉院は有名です。)



自然な木材が乾燥や湿度で伸縮する性質を理解して、通気を調整する知恵が生かされています。




こうした伝統工法は、まさに四季のある日本向け。



内部の湿度を出来るだけ一定に保ち、高床式には柱のネズミ返しも付いている弥生時代の穀物倉庫から続く思想です。





耐震機構も期待できるようですから、先人の遺産は素晴らしいですね。









東北地方の独自性と文化は、悠久の昔から息づいてきました。




大きな古墳もあり、恐竜までいたらしいなんて驚き。




木材、金属などの鉱物資源。  奥州藤原氏を支えた豊富な砂金など




これまでの東北に抱くイメージが変化するかもしれませんよ。