須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)
須曽蝦夷穴古墳が造られたのは、7世紀半ばでした。
島の南岸にある丘陵地で発見された謎の古墳。
方墳なので四角い墳丘なのですが、一辺は20メートル弱、高さは4,5メートルほど。
珍しい朝鮮半島の高句麗様式を備えた墳丘であり、被葬者は不明のまま…
二基一対にした石積み墓室(横穴式石室)の内部は自由に見学できます。
良い子は決して~登らない。(お墓ですからね~)
古墳時代も終ろうかという…頃に築かれた墳墓なのですが。
大和朝廷の支配圏(畿内)から遠い僻地の能登半島にも、駐留した有力者がいた証拠です。
(墳丘の外観は、東西に約18,7m、南北には約17,1mという方墳です。)
終末期の古墳にみられる様式で、正面にある墳裾(ふんすそ)の低い石積みを巡らしています。
(発掘時は、森の中で人知れず埋もれていたままだったのですね。)
直径は30m程の方墳。 不思議なポイントは、構築された石室に高句麗の影響が見えること。
■日本列島では珍しい様式で、つまり同時代に技術指導した大陸人が渡来していたのか?。
■それとも大和朝廷のルーツも大陸ですから、こうした技術を見直したのか?。
■もしくは、渡来人が朝廷に知られず能登島で暮らし、最期に土木工事を指導して構築させた?。
規模は小さめですが、やはり…これだけの墳丘を造営するには地元民の協力は不可欠です。
多くの人間を動員できる有力な権威者という推測は揺るぎませんが。
四角い墳丘内部の石積み墓室(横穴式石室)は、たくさんの板石を巧みに積み上げながらドーム状に墓室を形成していく技法。
これは朝鮮半島にある豪族の古墳にも酷似している手法で珍しいのです。
(天井部に、隅三角持送技法が用いられ…ドーム状の構造がある。)
7世紀中頃といえば、3世紀後半から造営された大規模な前方後円墳も次第に減り始め。
(3世紀半ば~奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現し、この次期は円筒埴輪が多く作られ)
墳墓は… 方墳や八角墳、円墳の造成などへ移行しつつある時代。
そして東アジア社会は激動期だったといわれています!。
中国との交流が激減し…倭国の記録がロストした時代(空白の400年)。
大和を統一した王朝が、より磐石な王権を築こうと奔走していたと推察されます。
(国内の少数民族が武力で駆逐されながら~支配の再編が加速していたはずです。)
ここは石室の入り口です。 遺跡発掘の後に綺麗に再構築されています。
(古墳ですから、本来は埋められていて…石室内部は見えませんけれど。)
堅牢な板石積みの墳墓、高度な岩石の加工技術もみられ…
この内部には埋葬された古代の大気成分が閉じ込められていたはず。
侵してはならない神聖な領域…
まさしく古墳は、タイムカプセルのようですね。
ふたつの石室は、長い羨道部で奥行きを保ち、全長も約7メートルあります。
東側に配置された『雄室』と呼ばれる石室は、平面形をした奥でT字形となります。
西側の『雌室』は、逆にL字形となっているのが特徴です。
石室に用いられた材料は、この能登島で産出した安山岩室板石が使用されました。
再現後は、金属製の保護柵を設置して石室を守っていますが詳しく見れます。
発掘調査と再構築をした研究者の作業に関する痕跡でしょうか?。
生々しい白線が引かれています。
副葬品は、刀装具や刀子等、木棺の釘から須恵器なども発見されています。
古墳内部(雄穴)から外に広がる景観を見ています。(南~南東の方向)
やはり… 天体の動きや信仰上の理由があるのでしょうか。
巨大な墳墓は権威の象徴か、それとも造営に協力させられる民衆の数は服従の証しか?。
振り返ると、背後には… 古代に葬られた麗人の気配が… ありません
。
この地面が、丘陵地の高さ。 石室を造り基本構造が仕上がると、大量の盛り土で整地。
対岸は、現在の七尾市周辺になります。 とても眺めの良い場所ですね。
ここを選んだ理由は?、近辺には彼等の住居もあったのか?、とても重要な神聖地か?。
真脇遺跡から~七尾湾エリアは、縄文時代からの暖かく自然豊かな内海です。
そのため島内には、小規模な遺跡も点在します。
石室の奥から出ても、謎は深まるばかり…