福島県指定重要文化財 茶室 「麟閣」 (りんかく)
天下の茶道、千利休の実子である少庵が建てたことに始まる茶室です。
鶴ヶ城内にありましたが、戊辰戦争の後には…城下へと移築されて大切に保存されていました。
平成2年、本来の場所である鶴ヶ城公園内に再び当時の姿を復元されたものです。
麟閣… そこには、千利休の茶の奥義が息づくのです。
豊臣秀吉の命により、天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入城いたしました。
後には92万石の大名になっております。
千石武将、織田信長の娘婿でもある蒲生氏郷とは、百戦錬磨の大剛の武将です。
そうした武勇を誇る一方で、風雅に通じた文化人でもあり、茶道にも深く親しみました。
茶道を極めた、利休七哲に於いても筆頭にあげられる器の人物でした。
殺伐とした戦国の世に、新たな価値観を提唱した功労者の千利休。
天正19年(1591)、太閤秀吉に茶の湯の世界から追放された千家を偲び…
氏郷は利休の茶道が途絶えさせまいと奮起、利休の子…少庵を会津にかくまいました。
蒲生氏郷は、徳川家康と協調して、千家の復興を秀吉に働きかけました。
その尽力が太閤を動かし、文禄3年(1594)には『少庵召出状』が出されたといいます。
会津から京都へと帰った少庵は、ついに千家を再興を果たしたのです。
千家茶道は一子であるところの、千宗旦に引き継がれました。
時は流れ…、孫である 宗左、 宗室、 宗守のら三人により、表、裏、武者小路などの三千家を興していき、現代へと繋がる茶道が隆盛となった礎が築かれれたのです。
丁重に庇護されていた間、大恩ある氏郷の茶室として造られたという『麟閣』。
茶の湯を愛する心とともに、鶴ヶ城(若松城)内で大切に守られてきました。
さて、戦国時代末期の武将は、密約や会談の場として、茶席を所望しました。
ご覧の通り、刀の大小も従者も外部に置いてから入室するのが茶室の作法。
狭い躙口(にじりぐち)から頭を入れるのですから、相手の裏切りがあれば途端に殺害されてしまう。
先は、戦う相手を信じなければ成立しない席… いざ参らん!
この意識改革は、間違いなく戦国の世を変えたのです!!。
江戸幕府の政権下、雪厳しくも永きに渡り安泰だった東北…会津若松の地。
しかし、幕末の戊辰戦争の最中、会津藩は敗北しました。
大政奉還により幕府は崩壊、そして明治初年、鶴ヶ城が取り壊されんとする際
石州流会津怡渓派である森川善兵衛(指月庵宗久)氏は、この貴重な茶室を失わせまいと奔走して、明治5年(1872)の5月、『麟閣』を会津市内にある私邸へと移築。
明治より120年の歳月を森川家の一族は、保全に努めてこられたそうです。
そして、世紀を越えた、平成2年9月12日。
会津若松市では、市制90年を記念して、蒲生氏郷と少庵にゆかりの茶室を永く後世に伝えるべきプロジェクトとして、懐かしい鶴ヶ城内に移築いたしました。
庭園は四季折々の花々に彩られ、花鳥風月を愉しむ趣きが生かされております。
この麟閣から… やや西の位置には、有名な歌碑が建てられています。
それは、土井晩翠が作詞し、滝廉太郎の作曲した『荒城の月』ですね。
城内にも悲しげな、インストゥルメンタルのメロディー♪が流れていました。
春高楼の花の宴 巡る盃影さして 千代の松が枝分け出でし 昔の光今いづこ…
会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城… をモチーフに作詞されたというこの曲。
作曲者の滝廉太郎は、大分県竹田の岡城や富山県の富山城などをイメージしたとも…
私も子供の頃、唱歌として♪ ~何気に口ずさんでいましたが…
滅びゆく情景の悲しみと、変わらぬ自然の対比が…そんな旋律の美しさを際立たせます。
会津若松… 東北の地は、幾度の哀しみや試練を受けねばならないのでしょうか…
ただ旅人として… 訪れた自分には、歴史の重みを知る一瞬でした。