福島県の会津といえば会津若松城の存在感。
別名には 『鶴ヶ城』 と呼ばれます。
その造りは、梯郭式平山城となっております。
市の中央に聳え立つ白亜の城郭と、回り廓を成した濠に湛えられた水面が美しい。
かつて…幕末の会津城下を蹂躙した激戦などなかったかのように。
慶応4年(1868)、新政府軍と旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が激突した戊辰戦争。
(その名は慶応4年・明治元年のは、干支が戊辰であることに由来しています。)。
鶴ヶ城は、難攻不落の名城とうたわれました。
戊辰戦役では新政府軍からの猛攻に曝されながら…過酷な籠城1ヵ月に渡る。
家臣の結束と信念の抵抗により城は落ちませんでした。
満身創痍の天守閣の姿は、しばしば紹介されますね。
会津戦争では、会津勢が立て篭もる若松城は、おびただしい死者や負傷者で溢れ、疲弊していきました。
そうした徹底抗戦に対して、薩摩は援軍を投入します。
しかし落城どころか死力を尽くした籠城戦で会津側は凄惨を極めました…
(白虎隊の自決などは、その最中に起きた悲劇です。)
9月22日、会津藩主・松平容保が新政府に降伏することで開城するまで、彼等の誇りは揺るぎませんでした。
この戦いの後、天守を含んだ城郭など損傷が甚だしく、明治7年に石垣だけを残して取り壊されました。
至徳元年(1384)この地に葦名直盛が館を築き、幾度もの世代で改修を経た会津の城。天下の名城となった。
時は流れ、多くの志ある皆さんの寄付により天下の名城は蘇りました。
(遡ること昭和40年9月のこと。)
平成23年春~桜の頃、幕末時代に咲いた壮麗な赤瓦を纏う天守閣のリニューアルも公開されました。
私は、表門の『鉄門』(くろがねもん)から入城しました。
石垣に使用されている巨石など、発掘や修復はたいへんな作業でしょう。
鉄門を内側から見た様子。 城郭…の随所に侍の文化が生きています。
鶴ヶ城の入場券を発売しています。
この堅牢な石垣、どのお城も独特な特徴がありますね。
若松城天守閣と書かれています。
さて、現代も会津の街で象徴となる秀麗な城。
過ぎた歴史とはいえ、多くの尊い人命が失われた地、聖域に足を踏み込むような気持ちです。