展示飛行専門の飛行隊 『ブルーインパルス』
第11飛行隊の任期は3年間と決まっています。
ですから、より多くのパイロットにもチャンスは巡り来るのです。
平日の殆どを訓練に費やし、展示飛行シーズンの週末は各基地へ遠征します。
死と背中合わせの過酷な訓練、しかし特別な手当てなどありません。
TAC(実戦部隊)で任務に就いているパイロットが、ある日…指名される鶴の一声。
選出された適正ある熟達したパイロットを一年かけて曲技飛行のスペシャリストに養成する。
航空祭や催事専門に華麗なアクロバットを演じる神業の操縦技術を駆使する彼等を
通称 『ドルフィン・ライダー』 と呼称します。
ブルーインパルス仕様の『T-2高等練習機』 複座タイプ
1982年から『F-86』に代わる二代目ブルー、速度マッハ1,6の超音速機。
T-2は機体も大きく、確かに急旋回などに向いた機体ではありません。
過去には悲しい墜落爆発事故もありました。 それは1982年11月14日航空祭。
この浜松基地でブルーの機体が航空祭の本番で、ダウンワード・ボムバーストの急降下から上昇に入る刹那でT-2が地表に激突。
※急降下から~花のように広がり上昇に転じる曲技。
戦闘機パイロットの高嶋一尉は帰らぬ人に…。(ご冥福を祈ります。)
世界の空軍で専属の曲技飛行隊があるのは、米国をはじめ英国の『レッドアローズ』など少数。
(イタリア空軍のフレッチェ・トリコローリ、カナダのスノーバーズ、スペインのパトルーラ・アギラ他といった精鋭たち。)
それからの数年間、徹底した対策や規制により飛行は禁止となり、再開後も高難度の曲技は封じられました。
使命感とは、栄光やカッコよさだけではないのです。
夢の翼も、想像を絶する危険な世界を内包し克服するからこそ輝くのです。
不死鳥の軌跡 ブルーインパルス 挑戦は終らない
元来は、米空軍のアクロ・チーム『サンダーバーズ』が来日公演した際に
航空幕僚長が構想した日本のアクロ専門チームを誕生させようという計画。
1960年、浜松基地・第1航空団第2飛行隊内の『空中機動研究班』として発足しました。
初期のチーム名は『天龍』、自衛隊内部のコールサインではブルーインパルスという言葉も…
■整備小隊のグランドクルー
機付け整備員は3名、そのうち1名は機付け長で、担当の1機を任されます。
揃いの制服で、スタッフ全員が主役として携わる広報部隊のブルーインパルス。
それまでの要員はパイロットを育成する教官が兼任していましたが、
空と地上、多忙な3年間を航空ショーで展示飛行の任務に完全燃焼する彼等。
1年目はTR(訓練待機)、ショーのナレーションや命懸けの訓練に励みます。
2年目はOR(実働待機)としてショーデビュー。各基地での展示飛行。
3年目はメンバー交替に向け、展示飛行任務を行いながら己が担当する役割を若いTRに教育。
現在は、航空自衛隊松島基地第4航空団第11飛行隊所属の曲技飛行隊であります。
『第4航空団 第11飛行隊』 戦技研究仕様機として飛びます。
(東北震災では津波で被災した福島県の松島基地も復興、ようやく帰還できましたね。)
T-2のコックピット、無骨な操縦桿や複数の情報を伝える計器類が並びます。
操縦席の硬いシートは、昔のドイツ車のより硬くて…疲労軽減するのでしょうか?。
地上付近の低空を飛ぶため、後継機T-4ではHUD(ヘッドアップディスプレー)や眼前のキャノピーは鳥との衝突(バードストライク)に対して厚く強化されます。
(最初にHUDを装備したのは、英国海軍のホーカー・シドレー・バッカニアです。低高度で飛行する機体では特に視界に入るHUDは重要。)
私も体験着座をさせていただきました(感激の瞬間)。
正座しなくていいんですよ
慣れた手つきで計器を確認(できません)しながら目を閉じると青空が…
パイロットは耐Gスーツに身を包み…男の職場へ行くのですね。
選りすぐりの男達により、既に半世紀以上の伝統を誇るアクロバット・チーム。
現在のブルーインパルスは、より軽量のT-4中等練習機に変更されて機動性も大幅に向上しました。 純国産機
低高度警報装置やスモーク発生用のスピンドル・オイルの操作器の増設や方向舵(ラダー)の作動角度リミッターなども改修されています。
(当初のカラースモークは廃止されました。 より激しい空中機動に適した旋回性も確保すべく操縦系も通常とは違います。)
全部で9機が使用されて、T-2時代に飛行は5機から6機編隊に増えました。
それぞれの機体はショーでの役割が決まっています。(予備が3機)
当時…3月11日、被災した松島基地では、6機が九州新幹線の祝い展示飛行に、他2機は整備で移動中。
残る1機だけが松島基地の格納庫で不幸にも水没しました。
多くの犠牲者の皆さんに対し、ご冥福をお祈りいたします。
最新鋭の戦闘機は、データを中央のモニター画面にデジタル表示するCRT。
コントロール装置がHOTAS(ハンズオン・スロットル・アンド・スティック)になり、操縦桿やスロットル操作を握ったまま行えます。
どこかバイクのような?。
(米国のF-15・イーグル戦闘機は、初めてHOTASを採用しました。)
最近のクルマも、ステアリングに集中ボタンがあって、オーディオなどの操作が安全に出来ますね。
懐かしいF-86Fのカラーリング。(さわやかな清涼感がありますね。)
デザインは民間人から公募したりするのですね。
『新塗装』と呼称されます。初期の隊長機には短期間ゴールドのラインも描かれていたそうです。
でもF-86って、ぽっかり開いたエア・インテークは、おとぼけ顔?(^O^)
どこか…お池の鯉のようです。
浜松基地こそ始まりの滑走路。
『MU-2S救難捜索機』 純国産
1967年、三菱重工が自主開発したターボプロップのビジネス機MU-2の改造型です。
救難用捜索機として必要なドップラーレーダーを装備しました。
通信・航法装置の強化が行われ、水上救命灯、救命用ブイ、マーカー(緑の液体です。)ラック、投下用スライドドア増設など多数の変更点。
(航続距離は1,750km、乗員4名)
現在は、救難捜索機に英国レイセオン社製の中型ビジネス・ジェットBAe-125-800を採用。
改良強化された捜索救難機(SAR)に1995年以降導入された『U-125A』です。
(現在の後継機ヘリコプターは、汎用ヘリ『UH-60J』に任されました。)
『MU-2S』の姿が迫れば、すぐに救難ヘリコプター『V-107』も到着します。
勇気を…希望をもってください。
新潟中越地震でも活躍した機体は、新潟分屯基地の救難隊から飛来しました。
現地に先乗りする救難捜索機は、救難ヘリコプターと2機コンビネーションで捜索。
いかなる気象条件でも出動し、脱出した生存者(パイロット)を救出する翼。
もちろん民間人に対する災害派遣に於ける高度な救出活動は特筆に値する。
”救難活動の最後の砦” 救難隊です!
機体両側にバブルウィンドウ(半ドーム状の窓)も備えて広い捜索視界を保ちます。
この機体からは…構造に日本人特有の細やかさが感じられます。
実用性も世界水準で、米国を中心とする国々にも好調なセールスを達成。
人々を救う、それが使命感!
尾翼には、救難隊のマークが。 (救急車なら、アスクレピオスの蛇杖ですね)
俺達の誇り 勇気のエンブレム
風を追い越す蒼い機体がテイクオフ、いつか貴女の街にも…
キューピッド飛行で、空にハートを描きたいです。
挑戦の歴史 永遠のブルー
大空は世界へと…つづく