いまは、躑躅(つつじ)の花が綺麗に咲いておりますね。








浜松城といえば、徳川家康が遠州を攻略すべく拠点として改築したお城。



家康の正室である築山殿(瀬名姫は、今川義元の姪)の一族、今川貞相が築城した城とも言われています。


永禄11年(1568)の末には陥落して徳川の居城となりました。


入城は、元亀元年(1570)の梅雨…6月のこと。 家康は17年の間在城しました。






城の普請も大事業


その規模は、南北に650メートル東西には600メートルという拡がり。


南側には東海道に向かう大手門が開いて、東から西への三の丸二の丸本丸と連なり…高さが増していきます。




二の丸は、浜松藩の政治の中心である政庁がございました。


表御殿におきましては、藩の政治を行い、奥御殿とは城主の生活する家でした。


現在は、市役所と元城小学校の体育館がある敷地となっています。










静岡県浜松市中区元城町


城址公園は、市民に開放された憩いの公園エリアになっておりますよ。桜


藤棚も咲いて…優しく木陰をつくっています。




もう遠州は初夏のような陽射しが注ぎ晴れ、気温も高くなりますね。


薄い長袖でも暑さで汗ばみます。




浜松城の周辺には、美術館や日本庭園などが完備されています文化ゾーン。












浜松城に使われる石垣の特徴。


それは野づら積みと呼称される荒々しくも堅固に積み重ねられた古い石垣です。


もしかしたら粗雑な外見で、クライミングしやすそうに感じましたが?。


野面積みとは、自然石を複雑に組み合わせる積み方です。


慶長(1596~1615)以前では築城に多用されていた工法でした。


大きな岩石面を奥へと…押し込む、牛蒡ごぼう積みにして、内側は小さな栗石を1メートルほど詰めて砂利も入れますから、降雨でも水はけがよく、崩壊を防ぐ効率が高いのです。


天守台から天守門跡付近は強固な石組が施されています。


突角部を見れば…長方形に加工した石材の小口が側面で交互に配置される算木積みを用いています。




天守曲輪と本丸の北方には、深く険しい谷が続く地形で、天然の要害となっております。


(どっからでも~かかってきなさい!プンプン



現在は、浜松市の史跡として指定を受け保存されています。












十六の井戸とは?



これが銀明水という井戸でありました。


かつて城内には…天守台に井戸があり、天守曲輪である埋門にもひとつ。


本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪の仲に四つ掘られ…合計16箇所の井戸がございました。






天守台にあった井戸は、天守閣の再建時に地下室を設けて残されました。


既に水は沸き出ません…(深さは1メートルほど、直径1,3メートル)。











これより向かうは、唯一の高層である天守台であります。


浜松城の元来の名前は曳馬城と呼ばれ、馬を曳くとは縁起が悪いということから…


家康の入城後は地名も含めて浜松、浜松城と改名しています。




後世、この城に着任した譜代の大名は、江戸幕府の重臣などに出世したことから



出世城の異名を持ちます。









入城料金は以下のようになります。(ADMISSION  FEE)¥









ボランティア・ガイドの皆さんと一緒に登城します。


さすが健脚ですね~。走る人








残念ながら再建された浜松城は、城郭の面影を守りながらも…


細部の構造は復元されてはいません。


いいのですモニュメントと化しても…  それでも家康様の城なのですから。


空が、どこまでも蒼く澄んでいる出世の街のシンボルですから。









徳川家康は、29歳から~天正14年(1586)に静岡市にある駿府城に転封されるまで、浜松在城期間は17年に及んでいます。


(年齢も45歳になりました。)



ここより進撃した姉川、長篠、高天神城、小牧・長久手の戦は有名。



そして元亀3年(1573)の三方ヶ原合戦にて、家康が最も苦戦を強いられ絶体絶命のピンチに陥った時代。


武田信玄は、浜松城に侵攻すると見せかけながら…も、眼中に無き如き行軍により家康に挑発戦法。


その挑発に激昂した?家康は、遂に意を決して浜松城から出撃!。


しかし、武田軍による巧みな心理誘導にかかり…翻弄されたまま大敗北を喫する結果となりました。



徳川家康といえば、慎重派で老練な知略の武将のイメージですけれど…


血気に逸る世代の頃は、勇猛果敢に進軍したのですね。




海道…東海道の要所に位置する戦国有数の城(砦)であり、幾多の戦の舞台でした。



決して大きな天守閣ではないのですが、そこはかとない不思議な歴史を纏う故のムード。








江戸時代も生き抜いた浜松城は、幕藩体制の終焉とともに…明治維新後に廃城となりました。


そして破壊されてしまった浜松城。


戦国時代も、戦略拠点としての城とは次々と主が変るもの。


その度に陣地として死守され、侍の生死を見届けてきました。




1950年、これまでの城址は浜松城公園となりました。


1958年、復興天守の再建に着手、なんと工法は鉄筋コンクリート製の天守。


翌年には浜松市の史跡として指定されました。



江戸時代の浜松には、小さくても唯一の高層建築が城郭なのですが。


そこに~お城があった、そんな人々の記憶が蘇らせたのでしょうね。



ドラマチックな小さなお城が、歴史を左右した重大な座標点。




つづきます富士山