日本漁業発祥の地
この石碑は、真脇遺跡縄文館の敷地にございます。
ひとつの仮説ですね、海岸線に広がる遺跡~衝撃的なイルカ漁の痕跡など…
結びつける要素の根拠は確かに多いです。
内陸の住居跡やムラを形成した遺跡は数あれど、こうした入り江の地形にある遺構は異色。
イルカや小型の鯨を捕獲している、あまりにも大量な遺骸に驚かされるばかり。
それは組織的に、より高度な漁法に到達していた証です。
しかし…それは縄文ロマン。
それだけ縄文海進の時代は温暖化傾向、日本近海は亜熱帯にも似た気候に恵まれた楽園。
自然と豊かな海の幸に恵まれ、独自の漁獲技術や祭祀を昇華させたであろう真脇人。
我々は、ようやく幻の入り江…古代の海辺に漂着した旅人だと思ってください。
真脇を知り…縄文人の心の温もりを感じる、推測よりも体感すること。
失われた彼等の衝動、生き抜いた情熱、死と大自然への畏敬の念。
もしかしたら、ここは東北の津波被災地のように滅びてしまった…聖地かもしれません。
そう思うと…この石碑も墓標のように感じます。
真脇遺跡のある能登町は、漁業の盛んなところです。
『日本漁業発祥の地』という言葉には、そんなリスペクトを込めてあるのでは?
考古学の世界は探究あるのみ、新たな『もしも…』は世界を変える波紋。
ここには真脇遺跡の出土品が展示されています。
国の重要文化財に指定された遺物は219点。 真脇遺跡に暮らしていた縄文人の世界観を紹介しています。
小さな資料館ですが、考古学の大きな発見を分かち合える空間なのです。
大規模な縄文時代の住居群遺跡などは内陸にあることが多いのですが…
北陸の海岸部に栄えた真脇遺跡、従来の概念をブレイクしてくれました。
組織的な漁の形態については(イルカ漁など)驚異的とも言えますから。
気象学の範疇からも真脇遺跡は大きな反響を与えた発見なのです。
『板敷土壙墓』は中期の住居址の近くから発見されました。
墓は全部で4基、埋葬された時期も住居址とほぼ同じと考えられています。
一般的には『竪穴住居』をイメージしますが、真脇の貼床住居跡には竪穴住居にみられる地面を掘りこんだ跡は発見されておりません。
真脇は『平地式住居』の集落であったというのが定説です。
発掘された墓穴の内部には板が敷かれており『板敷土壙墓』(いたじきどこうぼ)と名づけられました。
全国でも板敷きの類例は無く、この真脇遺跡だけで確認された形態のお墓です。
板敷土壙墓が発見された地層を調査すると凝灰岩質の粘土を一面に敷き詰めるという手法がとられていました。
真脇に生きた人々は、砂地が多い土地に集落を形成しながら…整地を続けて環境を変えていったということなのです。
それは独自なのか、いずれからの地方から伝播があったのか?画期的なことですね。
こうした粘土による加工は、住居址では床に貼られた粘土と同じ工法です。
環境の改善は、『棲息』から~『生活』への進化です。
これからも発掘は継続していくでしょう。
土壙墓を見ますと、東西南北~それぞれの方向に4基が配置されています。
その外観が楕円形の土壙が向いているのは、東西もしくは南北という明確な位置からは信仰心にも由来するのでしょう。
整地された層が物語るのは埋葬されている人物の重要性です。
古代の人間関係、縄文時代の意識によれば集落の長(おさ)つまり?リーダー達のい眠る特別な墓だったのではないかという仮説が中心です。
これまでに出土している板を年代測定する分析によれば、4基ある墓で~敷かれている最も新しい板と、最古の板には200年ほどの年代差があるそうです。
少なくとも長をつとめた偉大な4人のリーダーシップがあり、集落の人々を統率しながら繁栄を続けた証でしょうか。
土壙の状態や内容を比較すると、細部まで丁寧な作りの違いがあります。
スギ材を板にして敷いた土壙が主でしたが、栗やアスナロの欠片も出土しています。
磨製石器しかなく、現代のような工具もない時代の技術で『板材』に削ることが作るのは途方も無い労力を要したでしょう。
被葬者の亡骸を埋葬する際に敷いた…特殊性から見ても、外部(大陸や他の集落)から受けた影響から真脇で昇華した典型とも思えますが。
また…3号住居を例にとると、かなり特徴的な住居跡だと思われるのですが。
遺跡内では直径約6,5mほどある円形の石囲炉痕も幾度も作り直されているのです。
(その度に以前あった炉を壊すことなく埋められています。)
現在は6箇所の炉が確認されています。 6つの炉の最古の4つ内部には細かに割った土器を敷き詰めていました。
土器を敷いてある炉の作りは、北陸の石川や富山県~以外だけでなく岐阜や愛知県エリア、北方では青森県の遺跡にも確認される特徴です。
しかし同じ住居の中で、何度も炉を作っては壊さずに埋める手法。
ほとんどが砕かれた土器片を敷いてあるものは真脇遺跡の住居跡にしか見られないものです。
今後…国内の遺跡調査で新たな発見があれば、大きく変る可能性があります。
真脇遺跡出土品整理室
ここは発掘された遺物の欠片などを管理し、謎を研究すべく保管している場所。
真脇人の残した…時空の玉手箱?のようなものですね。
高台の遺跡公園から海岸部へ向かって広がる真脇遺跡…
そこに立つ写真入説明プレート。
こうした土器を作る人々の姿…。 縄文土器は、主に女性が制作したと思われます。
男女が生きる役割の分担化
生活の器を自ら作るアーチストのように。 縄文時代の女性は働き者で日常はあらゆる労働に励んでいたそうです。
男性は漁以外について~怠け者(勤勉ではない)だというのですが…。
どんな古代のドラマが繰り広げられたのでしょう?。
遺構には他にも巨木を立てたと思われる場所が隣接しています。
縄文時代の末から弥生時代への変遷には…数百年以上の歴史の空白があるようですが。
環境に適応しながら暮らしていた縄文人。
彼等の創造した土器や土偶などは…独自性ある非常に異質なデザインです。
歴史上どの時代や文化とも異なる要素で生み出された縄文美術。
まるで…カンブリア紀の生物爆発?のように異質で想像もつかない特徴をもつ美意識が発達していた縄文時代。
原初の日本人らしい美術観こそ、生命感そのもの…縄文の息吹なのでしょう。
ここにある板敷き土壙墓の南側から木柱列も発見されています。
柱列により…人々の居住区から~結界として聖域の土壙墓を隔絶している役割だろうと考えられています。
木柱列の方向からは、季節が冬至になる日没の方向を指している可能性も指摘されています。
解りやすく復元された木柱の遺跡。
渡来人との混血が進んだ弥生時代と違う…純粋な日本人の姿があったのですね。
祖先のDNAは…意識の深層にも眠っているはずです。
縄文土器に感じる温かい懐かしさと力強さに惹き付けられるのは自然な心の動き。
さて、4つの土壙墓。 その3号土壙墓から出土した人骨は手足を曲げた状態の屈葬で埋葬されていました。
赤色(朱漆塗り)の首飾りをつけており、腐食の酷さで判別できる分析には至りませんでしたが、壮年期の男性では?と推定されます。
この土壙墓の一帯からは石棒や土偶、人形をした首飾り、滑石製の耳飾りや玉など装飾品の特殊な遺物が出土しています。
あきらかに聖域であったことがわかります。
青森県の三内丸山遺跡にある巨木の高楼は…
もしかしたら、櫓の上に遺体(屍)を置いて、チベットの鳥葬(ちょうそう)の如き行為を行う宗教観の仮説まであるようです。
野生の猛禽類などに死肉を食べさせ…その魂を空へと還す?。
真脇の謎からは歴史を覆す発見がありました。
第二~第三の真脇遺跡は、いまだに眠ったままなのですから。
私たちも思索を深めていくことで歴史の謎に取り組むことが出来ます。
真脇遺跡の傍には小学校があります。
そこには最新の『ソーラーシステム』が設置されています。
あくまでも自然に…そんな真脇の地らしい取り組みでしょうか。
古代に於いては、木の加工や板の細工も?こうした現代の技術に匹敵するもののはずです。
木柱列も偉大な縄文のイノベーションです。
縄文体験学習では、弥生時代以前にも原始的な稲作が行われたという研究から…
古代米作り体験も~田おこしから始まり収穫までお米作りを体験することが出来ます。
ここでは、楽しく縄文土器や土偶を作る教室があります(2時間程で材料費は500円)。
粘土から制作した土器。 約1ヶ月の乾燥後…体験広場での野焼きにより見事に完成です。
(古代式の火起こし体験 もあります。)
それにしても謎と神秘の縄文時代。
今世紀、教科書は~まだまだ書き変えられますよ。