真脇遺跡…謎の巨木



環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)




丘陵地に位置する~遺跡公園から海へ向けて広がる約37,600㎡の国指定史跡本遺跡です。



標高4~12mという低地にある湿地の遺跡なのですが…



そのため、普通なら腐敗して痕跡も残りにくい動植物が素材の遺物が大量に保存されていました。


真脇遺跡の発掘では、縄文晩期の地層から~巨大な柱の列が発掘されています。


これを環状木柱列かんじょうもくちゅうれつと呼んでいます。



直径が90cm以上もある柱から、小さなサイズでは30~50cmという物まであります。


巨大な木柱は、ほぼ真円配置で…線対称形になるように並べて立てられていました。


環状木柱列は…縄文時代晩期にかけて北陸地方だけに出土する不可解な遺構なのです?。








これらの木柱列はいくつかの特徴的な要素を持っています。



秋田県にある鹿角市大湯には…万座環状列石の傍にも直径50cm程の木柱を等間隔に並べた遺跡が復元されています。


また、野中堂環状列石というストーンサークルもあります?。


これらの位置からは夏至の太陽方向などが示されると推測され、古代人の天体現象の理解を示唆しています。




真脇遺跡にも…同様のストーンサークル遺構が出土しないものかと私は期待していましたが…現在のところは謎。


今後…出土する可能性も残っており、日本列島に於ける広範囲の交流もしくは思想的な文化の共通性が考えられます。




そこで真脇遺跡の環状木柱列は、円状に並べられたクリ(栗)材の半円柱に加工した10本の柱を囲むように配置。


(このクリの巨木を石斧で切り出すこと自体が大変な労力ですから。)


直径7,4メートルの環状木柱列は、側で見上げると~かなりの迫力です。


それぞれの柱は半分に割って削り、丸い外側を円の内側に向けています。


その太さは直径80~96cmもある。小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられるのですが…。




石川県金沢市で、先に確認されたチカモリ遺跡環状木柱列ウッド・サークルと特徴が酷似しており、非常に注目されているからです。



こうして巨木を用いている建物など構築物は、巨木文化と呼ばれ…日本海沿岸から中央高地にかけて…いくつか確認されました。


現在~同様の構造物は石川、富山、新潟にある16の遺跡で出土しています。


(富山市古沢にある古沢遺跡、新潟県糸魚川市の寺地遺跡長野県原村の阿久遺跡は代表的。)


各地域では、土器や土偶など他の遺物に共通する特徴も見られるため…


縄文時代晩期は北陸地方に、思想美意識の根源をもつ民族が暮らしていたということが伺えます。










規模からしても、なんらかの祭祀で重要な役目をもつモニュメントか?


もしくは、神社の鳥居のように…黄泉の世界へのゲートのような領域。



パトス(魂)を召喚するか…逆に送り出すイニシエーション(儀式)が行われたか


真脇の謎は、日本各地の遺跡の謎でもあります。




近年の研究で、吉野ヶ里遺跡高楼物見櫓三内丸山遺跡大型高床建物が続々と発見され…


縄文時代の建物に関する概念と、木材の可能性は大きく変りました。


(時代は違いますが、古代の出雲大社にあったという高楼…巨大な本殿も謎)




三内丸山遺跡は、竪穴に柱を建てて造った建物跡。


穴の直径深さが約メートル、間隔は4,2メートルの中に直径約メートルのクリの木柱。


地下水が豊富なことから…腐敗させないため、木柱の周囲と底を焼損させ焦がす処理により遺構は残っていました。


実際に…長方形で本柱の大型高床建物は視覚的にも巨大で、果たして縄文人に造れるのか疑問?。


(こうした土木技術、製作の手法が知りたいですね。)






さあ、真脇遺跡に戻りましょう。


まず、いずれも使用される木材はクリの木に統一されています。


クリは他の樹木に比較すると、丈夫で腐りにくい樹木で、柱として適していたのだといわれています。

次に、どの柱も丸太のままではない、かまぼこ状に割られた高度な加工。


単に半分に割るのではなく、木の中心にある芯の部分が削られ除いてあります。


しかも10本の柱は平らな面が外側に向けて立てられているのです。


構造の内外が逆とすると…反魂を意味する呪術でも…


(巨石がないから…代用に木材が使われたのでしょうか?)



ここが…ムラ、集落の中心とすると…原始信仰の祭壇に間違いなし。



また、円形に並んだ柱の中には入り口と見られる構造があるのです。









まるでイギリス『ストーン・ヘンジ』のようです。


円陣状の直立巨石からなる先史時代…紀元前2500年から紀元前2000年頃に造られた遺跡です。


しかも周囲の土塁などが形成されたのは、紀元前3100年頃にまで遡るといいます。


(縄文なら晩期頃…日本では寒冷傾向で海面が低下し始めた時代です。)



古代の遺物は、何のために存在しているのかが最大の謎なのですが?。




さらに特徴的なのは、環状木柱列が同じ場所で何度も立て替えられているということです。


真脇遺跡では少なくとも度の立て替えた痕跡が認められています。


(これでは…まるで遷宮、もしくは意図的に破壊されたのか…部族衝突説?)


こうして木柱列が繰り返し立てられた位置は、縄文人の聖なる祭壇と思われます。



難解な環状木柱列からは墓坑や炉の跡は確認されておりません。


住居墓坑にも結びつきませんでした。



やはり平地に木柱だけが立っていたのでしょうか?。


(現代とは気候は違いますが、例えば頻発する放電現象雷…大きな落雷があり、現象を目撃した古代人は雷をカミと捉えて…神殿のように祀ったとか。)



これだけの物を造る動機は…自然への畏れ、偶然の事象の体験によります。








人間生活が数千年も継続すれば膨大な遺物が堆積していきます。


当然、真脇遺跡からは多くの動物質~植物質の遺存体も豊富に出土します。


植物相を解析すると、食糧になる~栗、栃の木といったクリ、カシ、トチノキなどが主食とされ。


古代の花粉などからも収穫された様々な種類を知り得ることで、真脇の自然を再現できます。



動物質食糧となればイルカ、小型鯨の仲間を栄養源にするため乾燥や貯蔵の技術も優れていたでしょう。



縄文人は激しい漁による傷などの出血や化膿止めに効く薬草も利用したはず。


実際は指定されている範囲以外にも未発見の埋蔵物はあるでしょう。


イルカ層以外の場所や別時期の地層からもイルカの骨は見つかっています。


未だ解明されない儀式や日常行為が想定されます。







そういえば、気象~天体現象も縄文時代は相違があり


北陸のような低緯度地方にも赤気(オーロラ)が見られたはずです。


しかし、高度は地平線近くに這うような薄紅い…オーロラ。


有史以来の2000年ほどの歴史すら不明点で驚いている私達ですが、


4000年もの長大な周期で訪れた大彗星や日食…我々が見たことも無い現象から災害まで?桁違いの感動と衝撃を受けた真脇の縄文人。



ただ、彼等には後世に伝える手段がない、そんな価値観や意識すらなく~


毎日を懸命に生きていたでしょうね。



縄文人には文字がありません。  言葉によるコミュニケーションも定かではないと言われます。


しかし、これだけの遺構や集団生活を営むくらいですから、複雑な意思の疎通をしたはず。


それが応用できれば、現代にも乗り越えられる問題は多いはず。





紀元前2300年頃、日本列島には…約26万人の住民が住んでいたと言われています。


現在の過密な日本からみると、とても少なく感じますか?。


(当時の平均寿命30歳前半~  現代の人口比率や寿命とは違います。)




縄文人は得がたい当時の温暖な環境で狩猟採集の生活が可能でした。


これでも狩猟民の住居跡から算出する高い人口密度の水準は世界有数だといいます。


(保障もない、医療もない、食生活も不十分な中で過酷ですよ生き残るのは?)





それでも幸運に恵まれた縄文時代、それも晩期になると、膨らんだ人口が一気に減少に転じるのです。


26万人級の人口密度が、8~9万へ減少していく過酷な時代の到来でした。

 


どうやら気候変動により徐々に気温低下、これまで潤沢だった食糧は得られず。



(擬似?亜熱帯から、冬は厳寒の雪環境へと変化していったのでしょうから)



定着した狩猟生活の弱点が露呈し、供給不足で人口も出産量も激減。



干物にして保存した魚や肉を交易していくことも衰退していくでしょう。


再び増加したのは、弥生時代に入り、農耕…栽培が行われた頃。


ようやく人口が6倍以上に増えたといいます。


食糧の安定供給は大切なことです。



(木柱は見事ですが、現代人の考証で再現した遺跡ですから…真実の姿は謎のまま)







山間部では狩人が猟を    日本海では漁師が漁を?



特に出土している陸生哺乳類は、ニホンジカとイノシシのような大型の獣が多く、ウサギやテン、ムササビまで含まれています。うり坊


もしかすると魚貝類…貝は食べても、貝殻を海に投棄していたのかもしれませんね。 

(通常は貝塚など大量に出そうですが、海に面してますから…どんな風習なのでしょう)



出土するイルカが…縄文中期以降に減少しているようですが、海水面の低下で入り江が後退。


次第にイルカ漁も困難になったか、イルカを解体する場所ごとの移動ではないかとも推定されます。








収獲には海山の区別なく祀る・・マツリ




生存が厳しい縄文時代、死も繁殖も自然に委ねられました。


自然の神々に収穫を感謝する祭りは生命力の爆発ドンッのようだったでしょう。


(現代の宇出津町で有名な夏まつりは、あばれ祭りと呼ばれる勇壮な行事です。)




こうした異形の仮面をつけた呪術者は…何世代も受け継がれた真脇の自然と


原始のマツリ… 人々の生死を…土の仮面越しに見送ってきた歴史?。



その心理は、そして遂には真脇の海を放棄して移民(滅亡)するに至った真相は…



大和朝廷の支配権が国土に浸潤していく時代には、何らかの軍事介入があったと考えられます。


弥生時代以降も自然は険しく、半島を陸路から移動してくるのは困難ですが。


(そうした条件が外敵を排除し、永い真脇の繁栄を支えた要素かも)



朝廷に蹂躙されたのでしょうか叫び




神秘の自然崇拝である縄文社会の崩壊。








1982年、第1次調査が実行され、遺跡傍の学校真脇小学校の通学路に転用される道路敷地の約1300㎡が調査されました。


 


調査では、貼床住居や晩期の半截柱などの遺構が極めて良好な状態で発見されました。


遺物にはヒスイの玉や御物石器、大型石棒、人骨ドクロ、イルカ骨などが出土し、真脇遺跡調査の重要性が明らかとなりました。


調査により真脇遺跡は蘇り  こうした遺跡公園が整備されましたが


遺跡公園は海抜35メートル以上…なだらかな高台の施設群。



どうやら真の値打ちは理解されていないようです。ザンネンあせる






温泉は、35メートル地点。 この宿泊施設は、さらに高台で安全になります。



かつて前方に広がる民家や農耕地…岩礁も海底でした。



後世の人間が遺跡を発掘、再び呼び起された真脇人…



地形の性質上、地殻変動による津波には全く無防備です。



私は、古代のカタストロフィに遭い集落が流されたこともあったと考えます。


真脇の町は古代の砂浜と波打ち際までの浅い海中になります。


真脇から能登町の海岸線も信じがたいくらい海抜が低い場所にあるのです。



新しい時代の地層は、普段でも高潮くらいの被害は出そうですが。


ある意味~訪れて驚きます、それゆえに美しい景色なので難しいですね。



優しい穏やかな海なのです。   九十九湾観光も湖と間違えそうな雰囲気。






もちろん真脇人、埋没した人間の墓も発掘されております。


板敷土壙墓が発見された地層は、凝灰岩質の粘土を一面に敷き詰めていました。


中期前葉から中葉にかけ、真脇の縄文人は砂地だった土地を大幅に整地し、ムラの形を整えました。


(つまり環境を改造していたのです。)



(現在の宇出津漁港周辺も大規模な埋め立てで、海岸線が消え景観は変ったそうです。)



古代を知ることは、未来を知ること。


動植物から人骨~土器など、遺物は大量に発掘された真脇遺跡


どうも何か大事なことが欠けているような気がします。


たくさんの出土品みずがめ座…それでも規模からすれば少なすぎるんです。


(過去に地震と津波などで生活遺跡が海中に引き込まれた可能性)



近い将来、この遺跡から発掘される未知の遺構や出土品が歴史を塗り替えるでしょう。



さあ、 つづきます。(ご一緒しませんか)