何の変哲もない…静かで小さな漁村が点在する海岸線。
防波堤も完備され、岸辺には倉庫も立ち並ぶ近代的な設備もあります。
真脇遺跡(まわきいせき)、それは石川県鳳珠郡能登町字真脇の土地で発見されました。
(元来は能都町の一部でしたが、2005年3月…平成の大合併で能登町に改名。)
この海こそが…歴史的に重要な鍵なのですけれど。
真脇遺跡の位置は、能登半島の先端部から~やや穏やかな内海に入る付近の入江の奥に広がります。
(1982~1983年に実施された用水路工事に伴った発掘調査により発見されたもの。)
東方に富山湾を臨む、周囲は丘陵地に囲まれた…沖積平野に眠っていたのです。
丘陵地の手前にある沖積低地…包含層。
近年の地層は水田の耕作地から約1メートル下層に発見され、次は約3メートルの深さに亙った遺跡の含まれた地層を年代順に形成していました。
(ここは僻地ということもあり、大規模な開発もなく今日まで荒らされずにいたのは幸いです。)
古くから土師(はじ)遺跡も存在していたそうで、平安時代末期に記された古文書に名が見られ、相当な歴史のある土地と語り継がれていました。
(土師…とは埴輪を制作する人のことですよ、後世の古墳時代ですね。)
1980年代の遺跡の分布調査をきっかけに、中~近世地層から深層に縄文時代の地層が確認されたのです。
まさに幻の真脇遺跡として脚光を浴びました。
私たちが自分の住処として主張する土地も…遥か古代には見知らぬ人間が暮らしていた。
約6000年前から2000年前、採集と漁撈(ぎょろう)生活を営んだ大集落が存在したのです。
最新の考古学の分析結果から、まだ見ぬ遺跡が各地に?あることを示唆する証拠が…
太古の昔から変わらぬ潮騒を聞き、波の華と生きてきた奥能登の民族。
そういえば…能登(のと)という言葉は、アイヌ語(蝦夷)の『喉』…のっと?からきたと聞いたことがあります。
古代人は、この半島が括れた形だと理解していたのでしょうか?。
(航空写真も~測量術もない時代に、山頂からの眺望による観測かもしれません。)
旧石器時代~縄文時代前期の気候は温暖であり(縄文海進)、海水面の上昇がありました。
その水陸分布図は、現在とは~まるで違うでしょう。
海岸沿いの国道や民家から離れて…数百メートル内陸部に広大な遺跡の発掘場を発見!。
標識を頼りに道路を登る坂道を…遺跡公園へと移動します。
コースの沿道には?独特なオブジェ~石積みがあり、便利な目印となります。
平和な聖地?ですから、スキール音など響かせながら攻めてはなりません。
コーナーはヘアピン(死語)ですから~ゆっくりと走行しましょう。
(綺麗な石のオブジェを見つけると幸せになれるかも。)
ようやく遺跡公園に到着。
怒りんぼな?風貌の土面(仮面)をモチーフにした巨大な『顔』がお出迎え。
いや~裏表のない性格がイイですね~(両面が顔です)。
出土品は、土面の一部分だけなのですが…(前回①のレプリカ参照)
これは復元された想像図?(大きくて両手を拡げても届きません)。
公園にはユーモアたっぷりのオブジェが(@。@)沢山ありますよ。
それにしても、縄文人の呪術師は…この面を被って祭祀に踊りながらエクスタシーに達すると…
自然界の様々な精霊と交信して、ご託宣を告げていたと思います。
縄文人は泥顔料によるボディー・ペインティングあり、呪術に関した刺青や…ピアスに櫛などで飾る。
(耳飾りは…別の国内遺跡で?かなり大きな土製の物が発掘されています。)
憤怒の化身となったか、死者を祀る禊ぎの儀式なのか神秘的でしょうね。
怒んないで!!(もしや笑顔か)
大自然への畏敬の念を表す表情…縄文1万年の謎。
遺跡公園は丘陵地にありまして、海抜も高く…海が見渡せます。
海からの…風に守られ…腐海の毒に没しない…それは『風の谷』でしょう。
(縄文のナウシカ?いたかもしれません)
ここの風も~とても気持ちいいですよ。
シイ、樫の木、ドングリ、ナラ、トチの木などが植樹され…原生林の森に近づけたい。
いまは桜の樹木が満開を待つだけ。 (じつは隠れた桜の名所なのです。)
なだらかな丘陵地には駐車場、子供も楽しめるアスレチックを配したり。
古代の彫刻柱をイメージしたのぼり棒や、高低差を生かした吊り橋…滑り台。
ゆるやかな小川もあり、自然な景観で遊んでもらいながら~古代の暮らしを体験できます。
(もちろん、トイレや水道施設も充実している公園ですから。)
まるで、トーテムポールのような…栗の木で作られた木柱に模した駐車灯。
石器や土器、木材など自然の素材を生かした遺跡。
金属器もない時代、磨製石器だけで削られた木柱など多く発掘されています。
真脇遺跡の縄文テーマに、発掘された出土品をイメージした様々なオブジェに囲まれながら…不思議な縄文の魔法を体感できそうです。
今度は、デッカイ手です!
この本のような石碑には、真脇遺跡の由来が詳しく刻まれております。
ふむふむ…(遠い未来には…この碑文が遺跡になっているかも)
地質調査と自然科学的な分析の成果から解ったことは?。
縄文時代前期末葉の地層を調べると、イルカ層(骨格が多数)は波打ち際に近い、常に海水に浸かっている状態だったことが分かっています。
この時代の波打ち際は、現在~内陸の水田や畑のある場所になっといます。
真脇の縄文人は、なんと盛んに『イルカ漁』をしていたのです。
(現代なら環境保護で大問題でしょうが…)
海水温の変化や海流などに合わせ~季節的に南北に移動をするイルカ。
真脇遺跡が面した富山湾では対馬海流の分岐流の流れ込みがあります。
そうして集まってきた魚やイカなどを追ったイルカの群れがいたらしいのです。
イルカ層と呼ばれる堆積層から発掘された大量のイルカの骨格。
その第一頚椎をもとに数える、個体数にして285頭を超える数にもなりました。
いまだ発掘されていないイルカ層を調査すれば、実際には~さらに多くの解体されたイルカの骨が地中に埋没しているはず。
イルカ一頭から得られる肉は、十数人以上を養える食糧になります。
出土したイルカの種類は、半数以上が~カマイルカで55,9%、他は…マイルカ32,9%、バンドウイルカは10,0%、その他の種類は1,2%だそうです。
イルカ層とは、捕獲したイルカを水揚げ後に解体すると、食しない骨格などを廃棄していた場所と考えられます。
アシカの骨格も少量ですが出土しているそうです。(現在も稀に目撃されているそうです。)
主食の魚類とサバやカツオ。 それ以外にはサメ類、フグ類、ベラなどが発掘されます。
高度な漁獲技術を誇ったのですね。
それからの時代、海水面は徐々に下がっていくのですが…
真脇遺跡の人々の繁栄は環境の変化を背景に営まれていたことになります。
たくさんの縄文人集落で暮らすための豊富なタンパク源を海から得ていた。
日本列島での漁撈活動の始まりは同時多発的に興り…発祥の地を知ることは難しいでしょう。
海の民と山の民が織りなす異色の縄文遺跡
しかし漁獲物を見ると、縄文人は素手で魚を捕らえたり、潜水も得意であったでしょう。
また、遠浅の海岸線を歩きながら魚介類を採集していたと思われます。
周辺地域の生物痕…(貝塚のように)から多くの遺物が見つかっています。
当時の気候からすると海山の豊かな恵みは、現代とは大きく異なるはず。
丸木舟くらいは製作し、ある程度の沖で漁を行い…銛や鉤といった道具を用いた捕獲で暮らしていたと考えられます。
(イルカ漁を可能にするには鋭い銛も必要、かなり高度な漁獲の能力が必要です。)
真脇遺跡は自然の景観からみて、海産物から~山間部の堅果(木の実)や根菜、キノコを採集しやすい地形。
獲物の交換や貴重な野山の獣を狩猟することも発達していたでしょう。
農耕の開始される以前、かなり大きな集団社会を形成していた真脇の縄文人の食生活はバラエティーに富むものと推定されます。
消えた…縄文の狩人たち
つづきます…