前田 利益(まえだ とします)とは誰?。
前田慶次郎と呼ばれ、世間で知られる加賀藩縁の大剛の武士であります。
まさに益荒男(ますらお)
賀茂真淵(かものまぶち)といった歌人たちは、和歌の理想と考え、万葉集の歌の中に詠まれている美意識。
この益荒男が見いだされると説いています。(気は優しくて~力持ち)
男性的でおおらかな歌風を表しています。
隆慶一郎さん(故)の小説『一夢庵風流記』は、彼の生き様を描いた傑作でしょう。
朱槍を手に、愛馬と戦場を駆け抜けた彼…慶次郎!
この小説で脚光を浴びるまでは、それほど有名ではありませんでした。
むしろ、藩の正史から意図的に消し去ろうとしたようにさえ思えます?。
彼の通称は…宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次~と呼ばれることも
(さては、周囲の者が~どう呼ぼうが気にもしなかったのでは?)
…上杉家に仕官したからだけとは思えません。
慶次郎は、前田利家の甥(義理の)ということもあり、前田家の家督相続の筆頭のはず。
後には上杉景勝とその執政である直江兼続の知遇を得て、上杉領に身を寄せておりました。
上杉景勝が越後の地から~会津120万石に移封された慶長3年(1598)から
天下分け目の『関ヶ原の戦い』が勃発した慶長5年(1600)までの間、なんと上杉家に仕官。
新たに召し抱えられた浪人集団である組外衆筆頭として1000石を受け賜る身分でありました。
なんとも風雲児、波乱万丈などという言葉が~軽やかに感じる生き方でしょう。
(ことなかれ主義の現代人には、中傷や好奇のマトにされるセレブですね)大和国刈布に隠棲させられ生涯を終えたとも…
周囲には妬かれたでしょうねえ…(笑)
加賀藩史料では、慶長10年11月9日(1605)前田慶次利太…没す。
73歳であったと伝えられています。
彼の行動理論は、秘めたる『実力』…『意外性』かもしれません。
既存の方法論を打ち破り、最善の行動を取る人物。
(環境は人間を鍛え上げる、日常に生死を賭けた戦国時代。人間の生存本能や能力は開花し、大きな仕事をやり遂げた人物は多いですから。)
奇行や~相当ないたずら好きであったと伝えられる彼の人物像は謎だらけ。
(不遇な人生を歩まされようと、機智と行動力~そして豪胆さで存分に貫いた)
前田利長の命令によって
そこにある安楽寺には『竜砕軒不便斉一夢庵主』と刻んだ?四尺余り高さ五尺ほどの石碑がたてられたといいますが、現在は何も残ってはいません。
米沢側よりの資料で、慶長17年(1612)6月4日に堂森の地で没したとされています。
前田利益の亡骸は北寺町の『一花院』に葬られたそうですが、やはり現在の一花院は廃寺なのです。
もう…痕跡すら残っていません。
慶次郎は、病を患うと…自らのことを『龍砕軒不便斎』と自称していたそうです。
まったく、こんな逸話が残っている魅力的な人物だったのでしょう。
(奇抜で様々な文学的な才も知られています。)
死しても尚…碑や墓石にすら縛られたくなかったかも?
それとも敵愾心ある小心者の仕業か、面白いと思っているのは本人だけ。
戦場では凄まじい戦い方の勇猛な武人であったといいますが、以外にも長命ですね。
現役で70歳以上とは…タフネス
干支(かんし)、ついでに十干十二支の説明を。
甲・乙・丙…から始まる十干、そこいに子・丑・寅の十二支を組み合わせますと、10と12の最小公倍数である60通りの組み合わせになります。
日本では昔から、こうして年齢を数えるとき利用しました。
丙午(ひのえうま)という言葉がありますが、そんな60年周期を表しています。
つまり還暦のことですね。 60歳になれば暦が元に戻る『還暦』
慶次郎も大人しく祝ってもらったのでしょうか?。
(あり得ないかな!…やはり)
歴史というより、常に現在進行形の自分自身が大切な要点。
人生とは果てしない…いくさ
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