ここは加賀藩、白山渓よりの豊かな水に恵まれた城下。
いまや石垣も整備され、また最近~埋められていた『いもり堀』など多くの堀も復元されて清らかな水を湛えています。
そろそろ 『鶴の丸・広場』 …で休憩させていただきましょう。
本丸~東ノ丸の真下にある郭のことです。
かつて…おまつ様(利家様の夫人、芳春院)が東ノ丸にいらした際、池に白い鶴が舞い降りました。
美しい…まさに瑞祥(めでたい事の吉兆)、これは前田家が長く栄えていく兆しであるとし、
この郭を『鶴ノ丸』と名付けたそうです。
初めは、二代藩主の利長により、便殿(休息用される御殿)が建てられ、藩の政治に携わっていました。
実は…元来、この辺りには人質を拘留する建物がありました。
慶長19年(1614)や 翌…元和元年の大坂の役が勃発すると、
加賀藩士の出陣を狙った、領民の叛乱を危惧して、加能越三国から一向宗の僧侶や町人、百姓まで主だったものを人質として収容していたと伝えられています。
飲み物が美味しい~暖房が効いていて~暖かいです。

歴史的な背景はともかく、現代の金沢城は…街のオアシスですね。
砂漠の国では、もっとも豪勢で贅沢な遊びというと派手に『水』を使うことだといいます。
私達は、水が豊かな国に生まれて幸せですね。
鶴の丸広場に設けられた池…冷たくて澄んだ白山からの伏流水が水源。
初夏には…『杜若』や『菖蒲』も美しく咲いてくれるそうですね。
復元された、五十間長屋、そびえ立つ菱櫓など(左手)を眺められる位置にあります。
写真右は、石川門です。
『鶴の丸休憩所』の内部は、パネル写真などの展示物で、金沢城と前田家の歴史などを紹介しています。
お立ち寄りになると、城の四季を彩る様々な出来事に触れられます…。
加賀百万石、前田家の祖である『前田利家公』。
尾張荒子(名古屋市中川区荒子町)の士豪『前田利昌』の四男として生まれました。
戦国の覇者『織田信長』の家臣として、大名としての礎を築きました。
彼の幼名は『犬千代』といい、青年期には『又左右衛門』と呼ばれ武勇の誉れ高い大剛の武士。
槍働きの『槍の又左』の異名で知られます。
NHK大河ドラマにもなった、『利家とまつ』のお二人。
時代の先を行く、都市水源と用水網
辰巳用水(たつみようすい)
金沢市(石川県)を流れる約11キロメートルの用水路があります。
これは、加賀藩の三代藩主である前田利常の時代、寛永9年(1632)に整備された用水。
(板屋兵四郎さんという人物が完成させた用水路だと言われています。)
犀川上流にある…上辰巳から取水する、約4kmの導水トンネル経由し、小立野台地へと導いた後に、兼六園内の曲水とされていました。
当初は導水管(木製でしたが、後には石管を用いた)を外堀の下に潜らせることで金沢城内、そして町中にまで水を供給しています。
板屋兵四郎さんは、取水地が金沢城より高い地域にあるこで、水の高低差を利用しました。
『伏越の理』と言われる逆サイフォンの原理を利用しています。
金沢が栄え、1950年代頃から民衆の人口増で…地表には生活排水の流入による汚染も深刻化?。
そこで辰巳用水の地表部の大半に並行させるべく兼六園専用のバイパスが増設されました。
現在も市民生活に欠かせない辰巳用水。 江戸時代の土木技術を知るための貴重な史跡です。
石管には、富山県砺波市で産出した金屋石が使用されました。
富山県十二貫野用水の第一分水である龍の口用水でも用いられた高度な技術が駆使されました。
辰巳用水の3分の1がトンネル状に配置され、地形と勾配が緩慢な土地でありながら、難工事を僅か1年足らずで完成させています。
城造りの『高山右近』といい、『板屋兵四郎』といい…優れた良い人材に恵まれた城下町です。
まるで古代ローマの水道システムを見るような見事さ。
自然石をマテリアルに加工した石管の漏水防止に松脂や檜皮まで利用。
先進の水資源利用…金沢城と兼六園。
『城ぞ石垣 そして人』
見事な『書』でございまする。
城…石垣を…臣下との人間関係に…比喩的に表現された…絆が読み取れます。
アンティークな…龍の模様…由緒あるものでしょうか?。
(この…水瓶、さぞや名のある品なのか…某には解りかねまする。)
さて、加賀藩には、名もなき兵(つわもの)が命を賭して仕えてきた歴史がございます。
かつて戦国武将の佐々成政が15000人もの大兵力で、国境の末森城を急襲しました。
末森城主は 『奥村永福』(ながとみ)。
僅か300人の手勢での籠城戦、死力を尽くして撃退し、その武勇は永く語り継がれております。
そうした功績で、加賀重臣の八家(はっけ)を代々勤める家柄。
奥村助右衛門の名を受け継いでおります。
(現在の国立金沢病院敷地は、家老まで勤めた奥村邸の跡地?)
また、藩政後半は経済観念の卓越したマネジメントの兵あり!。
猪山家七代の『猪山信之』は、加賀藩算用者。
噂の『そろばん侍』でした!。
財政難の加賀藩にて幾度も窮地を救った才覚の持ち主。
息子の直之は、前述の能登巡見にも同行したそうです。
己を磨き、博学多彩、武勇の誉れ。
水瓶に清らかな水を注ぐように、才知と逞しさを受け継いだ者達の伝統があるからこそ加賀百万石は揺らがなかったのですね。
室町時代末期は、日本列島が未曾有の戦乱に明け暮れ…産まれてからの生涯を戦の中で終わる人々も数えきれません。
戦争の産物は、急速な技術革新と人々の死生観に現れます。
この時代、若者から子供まで戦争に駆り出され、平均寿命も大幅に下がりました。
(僅か30代半ばにまで、後退しています。)
こうした時代には傷病者も多く、治療法なども進歩したと思われます。
天正9年(1581)利家公が、能登を領地とし…北陸に足跡を印した瞬間より始まる加賀藩の歴史は、まるで友禅のように川面を染めた花の時代。
もはや…戦国ではない。
戦国から江戸時代への移り変わりに築城された金沢城は…時代の黄昏時なのか?。
それとも白き城壁を染める…新たなサンライズなのか、躊躇せずにご理解いただけるはず。
北前船による盛んな物流と商工の綾なす町衆文化。
農耕に於いては、耕作地の合理化などで石高も上がり続けました。
加賀藩となり、外様大名として順風満帆ではないにもかかわらず厳しさを強いられながら…武家と領民との絆も深まりました。
ここで、金沢城の隠れたエピソードを…ひとつ
主君は、参勤交代などを義務づけられ、滅多に城を離れて自らの領地の隅々を巡察する機会はありません。
それは徳川幕府の征する体制下でも叶わぬことでした。
ところが、嘉永6年(1853)の春四月~

13代藩主である『前田斉泰』様より
能登半島を巡見いたそうではないかというプロジェクト?が持ち上がりました。
こんなことは幕藩体制が始まって以来のことです。
主君自らが、視察し…領民と謁見するのは只一度のことでした。
目的は『海防視察』。
即ち日本海の僻地にある海岸線(能登半島)の防備と領地を視察する。
4月初め(グレゴリオ暦5月の終わり)~25日までの長期に渡り、随行者700人以上の規模で行われた巡見。
(折しも加賀藩は現在日本のように~不況で財政も逼迫中)
しかも突然のことで、家中も~領内も緊張が走りました。
実は、江戸末期の日本列島、徳川幕府は海外勢力から開国を迫られ…周辺海域に異国船の目撃例が頻発していました。
(近年の日本周辺、尖閣諸島のようですね。)
そして前代未聞の巡見は、予定通り出発しました。
能登半島にも、辺境の海岸線を守る要である『台場』や『番所』があります。
その再点検?、主君の真意を量りかねる家臣や各地の領民は、慣れぬ対応に四苦八苦。
『斉泰』様は、お駕籠で巡見し、能登の風物や人々の暮らしを名残りを惜しむように愛でられ、無事に全ての日程を終えて金沢城へご到着。
それは…4月25日の午後(現在なら 6月のはじめ)のことでした。
城下町、そして加賀~能登など各地の逸話は、心温かき主君を讃えるものです。
それがいい…
巡見を終えた日から…1ヶ月以上後になる運命の7月10日。
突如!!江戸屋敷から疾風迅雷の書状が届いたのです。
『浦賀に異国よりの船団、四隻が入港せり』
江戸湾に停泊する不遜な黒い軍船…。
まるで火山のように煙をあげる、蒸気機関を搭載する未知の異国文明に遭遇した日本人。
ペリー提督の米艦隊が、日本に開国を要求したということになります…。
(実際は、極秘に…遥か以前から幕府への接触は繰り返されていたといいますが?。)
外様大名といえど、時代感覚に長けた歴代の藩主や重臣は…精緻なインフォメーションに怠りはなく、内外の事情に精通していたはずです、
『前田斉泰』も才知にたけて名君の誉れ高く、
幕府の運命を見越した英断があればこそ踏み切った『巡見』だったのでしょう。
(驚くべきタイミングですね。)
かつてない驚天動地の変革の嵐が国内に吹き荒れる!
それを見通す見識も藩主の器量でした。
そのようなテンペスト(嵐)に対しても動じないこと
君主は、軽々しく臣下に胸の内を明かしてはならない。
リーダーとして、軽挙妄動を慎ませ、幕府と領民の安寧に心を配る責務があるのです。
厳しい立場があればこそ、高度な判断力と泰然とした人格も育まれます。
いつか、我ら侍の世は…終わっていく。
その後も加賀藩は、幕府に軽視されながらも懸命に生き残りを模索しました。
14代の加賀藩主となった『前田慶寧』が最期の主君として…
激動の明治維新(1868)を迎え、287年間の永きに渡った藩政の幕を閉じました。
その後も…金沢城は沈黙を保ち、人々の栄枯盛衰を見つめてきたのです。
つづく…
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