ぐるりと城内を一巡して、石川門まで帰ってきました。
もうすぐ満開の桜で満たされる城郭を歩きたいですね。
越中攻めで…『佐々成政』が『羽柴秀吉』の軍門に下り、肥後国へと完封された後。
成政の軍事拠点であった『富山城』も前田利家の管理下に置かれました。
利家は『高山右近』の手腕で、富山城を近世に相応しい城郭への普請に着手。
慶長10年(1605)のことでした…。
(富山城は神通川を水源に利用した濠、富ノ浮城…と呼ばれるほど、湖水に浮かんだ城にも見えます。)
明治の廃城令以後…そして現在、千歳門などの城址整備を機に、模擬天守なども改修は続いています。
平成の普請?で完成した富山城が~どんな美しい城郭となるか楽しみですね。
城の各所を拝見した後に見上げる…石川門は、実に頼もしい門。
難攻不落でなくても、どこか気負いのない城郭の美しさが印象に残りました。
桶狭間の戦いなど歴戦の武辺者であり、己一代で百万石を築き上げた利家公。
晩年は常に算盤を駆使して、緊急時の兵糧や動員数、金銀の貯えなどに不断の準備を怠らぬ経済者の一面も?。
豊臣家の五大老の一人、前田利家も慶長4年(1599)3月に62歳で御逝去。
(豊臣秀吉は、慶長3年8月に無念の病死…)
もしも、前田利家が存命していれば、翌年に『関が原の戦』も勃発せず…
徳川の天下(幕府体制)成立も大きく違っていたはず。
庭園の松に施される雪吊りのように、優しく手を添えた文化の都が栄えたでしょう。
ほんとうに…争いが似合わない街。
『金沢は天下の書府なり…』
城の火災は幾度もございましたが、いかなる嫌疑をかけられようと遂に明治維新まで戦火には見舞われなかったのです。
3代藩主の前田利常は、機知に溢れたニューエイジ?の傾奇者

幕府のプレッシャーどこ吹く風

城の増改築も派手な振る舞いも畏れない、しかも鼻毛を伸ばし放題?下帯すらもしない格好で出歩いて嫌疑をかわす…呆けた噂が流れても知らん顔。
(かなりアブナイ…お殿様。

将軍家光の姉、そして利常の正室である珠姫(天徳院)の~気苦労を考えたら胃潰瘍穿孔になりそう。
教訓…嫌疑をかけられたら、相手が幕府だろうと傾奇いて候!
利常は、古今の典礼に通じ、和漢の古典を収集し文化の極みと造詣は学者顔負け。
理知的で謀反の疑いなどなし…それにも拘らず機略縦横で油断ならず。
加賀藩には破格な主君が度々現れ、むしろ権威側にプレッシャー責めを楽しんでいた節もあり?。
鉛瓦は凍害にも強い、海鼠壁の防火に対する効能に疑いなし。
戦仕度どころか、なにより北陸では実用でございましょう。
お疑いになるなど…それは貴殿の小心の成せる業かと…お見受けいたす

まずは、城下で山海の妙味を楽しまれるがよい。
この豪壮な門構えは人を遠ざけるためでなく、受け入れ守るためでございます。
キリシタン高山右近の設計による西欧文化の風格は城郭に生きており…
殺し合いではなく…教会のように庇護し、蹂躙に屈しない心の拠り所であった。
それが金沢城スタイル。
金沢市の中心部に位置する城址…
かつての百間堀(濠)を道路とした百間堀通り(百万石通り)に架かる橋を渡っての帰路。
復元工事まっさかりの金沢城公園、さらに壮観で麗しい栄華を魅せる城になるでしょう。
ありがとうございました。
この城には、いまでも利家様をはじめ、まつ様や慶次郎様が生きておられるようですね。
一瞬、見事な漆黒の巨馬に跨る『前田慶次郎』様が見送ってくださったような…
また逢おう!

石川門を後にして、石川橋を戻りますと…その対岸は
兼六園(けんろくえん)、ここは…石川橋から間近の『桂坂口』になります。
日本三名園に数えられる国の特別名勝です(江戸時代を代表する池泉回遊式庭園です)。
加賀藩が造営した藩庭は、金沢城の外郭で約3万坪もある稀代の名園へと進化しました。
岡山の後楽園と水戸の偕楽園と並び日本三名園とまで尊称されても…市民の憩いの場所。
(1922年…国の名勝、1985年に国の特別名勝の指定を受けました。)
江戸時代、延宝4年(1676年)に5代藩主前田綱紀が造った『蓮池庭』が始まりとされます。
当時は金沢城の外郭として城の一部に属しておりました。
13代藩主の前田斉泰が現在に~ほぼ近い庭園の構成に整備したとされます。
『兼六園』という名称となりましたのも、この時代からなのでしょう。
中国洛陽一の名園である『湖園』をご存知でしょうか?。
宋代の詩人『李格非』の書物『洛陽名園記』の中で謳った名園に倣いました。
そこは…『宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望…六つを兼ね備えし名園』
文政5年に白河楽翁公(松平定信)による命名であると知られています。
春夏秋冬を奏でる潤沢な彩り、雪への備えである雪吊は美しい冬の風物詩。
自然美を追求したイギリス式の風景庭園にも優る名勝であると…
いざ参らん、戦国のロイヤル・ガーデン!!
と…いきたいところですが、残念ながら加賀藩の伝統の庭園…『兼六園』。
その秘密は…また次の機会に。
さすがに解説されすぎた感のある金沢城&兼六園ですから…
私などでは役不足 ( ̄_ ̄ i)。
いきなり猫(福を招く)ちゃん。
紺屋坂の陶器店で飾られていました(九谷焼?なのでしょうか)。
マシャ~さんに(福山^^)似ている気がしませんかNYA。

もうすぐ端午の節句
中国から伝わる端午と結び付けた行事。端午は五月忌み(さつきいみ)という風習の変化。
(日本では男性が家を出払って、女性が家の中に閉じこもる。田植え前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み)
奈良時代、宮中では菖蒲で髪を飾った人々が武徳殿に集い…天皇から薬玉(くすだま)を賜る日。
薬草を丸い薬玉にして互いに贈る行事。
江戸時代になって関東の風習として広まった『鯉のぼり』。
『鎧兜』は防御の道具であり、男子を守護する意味合いが込められます。
(中国の故事、五行説にちなみ、五色の吹き流しと三匹以上の鯉のぼりからなります。)
可愛い人形達が子供さんの健康と幸せを守ってくれますよ。
外濠公園の『前田利家公』のブロンズ像を載せる余裕がありませんでした。
(立派なのですが…すみませんね。)
紺屋坂を下ると…バス停そばに、現代彫刻が飾られていますが…
(ゴメンナサイ 由来を知りません?)
これは、親子イルカ(海豚)と天使

噴水と言えば…
霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てた徽軫灯籠(ことじとうろう)など、兼六園を代表する景観はたくさんあります。
園内にある古式の噴水は、日本では最も古い噴水なのだそうです。
園内の水源である、高所の霞ヶ池より石管を用いて水を引き、水位の高低差を利用した噴水。
こうした自然の原理により…噴水は、霞が池の水面の高さを越えられない。
動力機械は全く使用していない、高低差の位置エネルギーを利用したものであります。
『水からくり』 …ですね。
写真は、兼六園の東南側に現存する『成巽閣』(せいそんかく)。 文久3年(1863)
13代藩主の『前田斉泰』が母親『眞龍院』の隠居邸とすべく建立しました。
竹沢御殿の内に建坪3百坪の武家屋敷は、見事な数奇屋書院建築。
1階部には豪奢な謁見の間、2階は群青の間、網代の間など、隠居邸とは思えません。
やはり、お城とトータルコーディネート。
(内部には、東照宮にも優る繊細…艶やかで女性的な欄間がございます。)
【営業時間】 9:00~17:00 定休日は水曜(祝日の場合は翌日)
料金は、 大人・大学生 ¥700/ 中高 ¥300/ 小学生 ¥250
帰り道…クルマで主要な場所を走行しました。
まさに名所の槍衾


この一帯には、金沢城や兼六園、成巽閣~本多の森公園
藩老本多蔵品館~石川県立歴史博物館~石川県立伝統産業工芸館
石川県立能楽堂~石川県立図書館~鈴木大拙館~石川護国神社などが立ち並ぶ文化と歴史のゾーン。
お勧めは、石川県立美術館。
国宝色絵雉香炉など、古美術品から現代作品までが幅広く展示された美術館。
館内エントランスホールには、石川県出身パティシェ『辻口博啓』さんのプロデュースしたカフェ
『ル ミュゼ ドゥ アッシュ KANAZAWA』がございます。
お立ち寄りの際に…ぜひ御一緒しませんか。
紹介しきれませんでしたが…
広坂を下った通りには、『金沢21世紀美術館』
石川県政の歴史を刻んできた旧県庁は移転しました。
その跡地を完全リニューアル 『しいのき迎賓館』誕生。
石川県政記念 しいのき迎賓館、それは天然記念物の『シイ』の木と一体となる外観、歴史的な意匠。
シイの花が咲くのは5月下旬から6月頃、匂いは強めで分かりやすい。
花や香臭は栗にも似たもの、異なるのは雌雄の花が別の花序(かじょ…枝全体)につくところ。
シイの実は細く堅め…素っ気ない独特な味わいなのですが、ナウシカに出てくるチコの実?を私は?このイメージで見ていました(笑)。
正面は大正13年(1924)に建築された格調ある意匠を生かす一方で、反対面はモダンなガラス構造の空間。
推定樹齢300年という~堂形のシイノキ~をシンボル化した、総合観光案内、レストラン・カフェ、会議室、ギャラリーといった憩いと交流の施設です。
このふたつは金沢の都心を飾る新たなランドマーク。

次回の見学まで…お楽しみに…

(病院めぐりもしたいですが…^^)

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