前田利家様が入城されて以来…戦国絵巻は血染めの錦のように化転してきました。


裏切り、殺戮、野望、まさに戦乱は国を疲弊させ…歴史を歪曲させました。


宝暦9年(1759)に大火メラメラで全焼した金沢城。




(丘陵地にある城は水の便が悪く、消火活動が困難なことは想像がつきます。)


その後、天明8年(1788)に再建。 寛政11年(1799)に大地震で損壊したことも。






三十間長屋


文化11年(1814)修復を続け、そして
13代藩主の前田斉泰が本丸付段に安政5年(1858)火薬庫として本格的に再建。


二重二階の構造をした多聞櫓、南面は入母屋造、北面に切妻造、屋根は鉛瓦葺。



梁間3間に…桁行を26.5間として、その外壁は白漆喰で仕上げ、腰壁は海鼠壁としました。



入母屋の屋根を突出させた西側、唐破風造にした石落しを備え、隠し狭間が並ぶ外観。



(秀麗でありながら隙のない、金沢城の統一コンセプトが伺えます。)



これは金沢城で現存している長屋建築では唯一のものです。



昭和28年(1953)~から昭和34年(1959)にかけた大修理の成果が現在の姿です。









城跡の本丸附壇に静かに佇むような三十間長屋は、寂しく…あまり人目につかない場所に建っています。


元来は、食器や生活物資など食糧米や千飯が貯えられてい貯蔵庫だといいます。
金沢城には、全部で14もの長屋が存在したと伝えられています。


土蔵であっても、石川門と同様の仕上げを施されています。


(近接位置で城郭の様子を鑑賞するには最適のサンプルですね。)










背面には3ヶ所の出窓(出し)を設置され、写真の中央にある出窓は基礎石積みに載せられています。


両脇に設置された出窓は、これも石川門と同様の唐破風にした屋根。



一向宗徒の拠点として、本願寺にとっては出先機関である金沢御坊』(御堂)は本来は寺。


(政治、経済、軍事の中枢機能を果たしていた金沢
御堂の名残でしょうか?)


以後…幾度も再建されて、軍備の兵器庫として堅固な構造にされています。


鉄砲蔵とも呼ばれていたらしく、こうした見事な蔵(武器・弾薬庫?)が城郭の各所に建ち並ぶ金沢城は壮観な眺めだったでしょう。



幕府の統制・監視、兵器の削減、…専守防衛?より厳しい立場が3世紀近くも続けば形骸だけの戦仕度は様式美としてのみ形を残したのです。








城郭、石川門などに見られる出窓(バルコニー?)は、三十間長屋なら至近距離で見学できます。


出窓(出し)の下部は、板を外せば真下に投石ができます(石落とし)。


もはや高さでは無意味でしょうから、やはり美観のためだけ…?。


(その構造、木の彫りや瓦の紋様や形状は共通し、詳細な部分を鑑賞できるので便利。)


ここからも現在の金沢市が眺められる、景色の良い位置ですね。










鉄門(くろがねもん)


二の丸から旧本丸の正門に位置し、創建された慶長時代(1600年頃)は、鉄板を貼った豪壮な扉が付けられていたそうです。


本丸防衛の要所であり、渡り櫓が備わる重厚な門。



(くろがね)という…古より伝わる名の由来、いまは石垣だけが残っています。


ここは…森のように木々が生い茂るエリアです。


強固な守りの扉(ゲート)は失われたとしても、城を悪意に蹂躙させない守りの…武士の意志が連綿と続いている気がします。










城跡の森林地帯


この一帯には…フィトンチッド溢れる緑相が豊かな憩いのがあります。


金沢大学付属の時代から植物園がありまして、いまも多くの植物系が繁茂しております(お散歩コースも楽しいですよ…)。


ここは市内の中央に近いのですが、モリアオガエルカエル(タヌキ)の親子が棲息しています。



『森青蛙』は、アオガエルの仲間と同じく水辺の樹木に粘液の泡塊をつくり卵を産みつけます。


(産卵は…これから4~7月頃になりますね。…ケロケロラブラブ


タヌタヌラブラブ

…可愛い奴なのですが、最近は市街地の各所で糞害も報告されています。

(マダニをペットに媒介するのではと…懸念されています。)










私は、コースを重視しない周遊?で、タヌキのように様々な場所に出没しています(笑)。


この周辺の石垣も打ち込みハギで積まれています。


やはり石肌に刻印符牒が見られます。 


符牒(符丁)というのは、作業従事者がコミュニケーションなどに使う独自の言葉や記号ですね。


市場での競りや取引所に飛び交う~ような手振りサイン~隠語?の類。


(業界用語?とは違うかなかお )



この先が…鶴丸倉庫です。











加賀藩のマイスター、大工であった山本勝左衛門は、弘化4年(1847)から着工。



鶴丸倉庫は、嘉永元年(1848)に建て替えた代表的な武具土蔵



藩政期から…金沢城内には何棟もの土蔵が存在していました。


本土蔵は、それら土蔵群に共通している意匠や構法が施されていると思われます。


全国でも城郭内に現存する土蔵の中では最大級と言われています。


基本構造は創建時のままだそうですが。  その意匠は腰の石貼りや窓回りなどにまで先進的で優れた美意識が盛り込まれています。


(平成20年(2008)には、国の重要文化財にも指定された鶴丸倉庫。)


明治以降、旧陸軍時代には被服庫としての修復により使用されていたそうです。


建造物履歴表という明治5年(1872)から、旧陸軍が管理し始めてからの資料により判明しています。



金沢城鶴丸倉庫は、東ノ丸附段に建つ土蔵造の2階建て、鞘屋根の基礎に戸室石を用いています。


切妻~妻入、桟瓦葺~外壁は白漆喰仕上げ。 腰壁は堅牢な石張り仕上げになっています。












元禄年間(1688~1703)には千畳敷の御殿と讃えられるようになったという金沢城。



復元されている橋爪門から鶴の丸広場付近の修復現場。 


足場から重機まで現代の工法で作業されていると…不思議な風景ですね。


前田慶次郎が乗りたがったでしょうね!、エキスカベーター(パワーショベル)。



歴史的な遺構を再建するということは、徹底調査の上で考証された当時のギミックを再構築。




まさに 『神のパズル』










橋爪門の続き二階櫓に斜光が当たる…


まだ肌寒い北陸の春。


青空に映える白い城郭が…修復される現場にも人影はありません。


さらに再現してほしいものの…計上される経費は全てが税金(難しいですね)。







火災~自然災害が多かった金沢城。  


藩政時代、加賀藩の豊富で潤沢な財力をベースに再建工事は幾度も行われました。


(ある意味~凄すぎるではないですか)



現代の疲弊した日本経済なんて、大災害続発で復興予算もパンク状態ですが。





さすが『加賀百万石』です。










いくらアメリカ傘下として世界経済の成功者になった日本国も…


第二次大戦の敗戦国なのです。


ようするに日本の扱われ方は、今でも外様大名なんでしょう。


中国や韓国と揉めて~立場を痛感しているのではないですか。







これからの外交や経済(災害)復興には、加賀藩の厳しい藩政で凝らされた生き残る智慧を大いに参考にすべきかと存じます。







天下の百万石も…稲穂ひとつから… 



明日の名君は・・アナタかもしれません。










 


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