宝暦の大火は被害が甚大で、焼失した河北門は二層の櫓が失われました。
再建されたのは安永元年という遠い昔。
平成19~22年に再建された構造は真新しい。出窓(出し)を設けた土塀も復元されました。
これは睨み(にらみ)櫓台を背後から…眺めたところ。
三の丸広場から~二の丸沿いのお堀を眺めます。
現在は、改修工事のため…お堀の水は完全に排出されています。
橋爪門も要所、脇の菱櫓が城内敷地を見張り、攻め込まれても食い止めます。
写真の手前へと続く五十間多聞長屋にも唐破風の出窓(出し)が配置されています。
石落としなど、外敵に対する機能面は…気づきにくいですね。
濠…
金沢城の建物は、その瓦に被せた鉛を特徴とする鉛瓦。
隠れた機能装備といえば、海鼠壁も当然の如く隠れ狭間を設置します。
(城壁の海鼠壁に施された磚瓦。 これにより銃眼である狭間が外部からは見えにくいというメリットがあります。)
そして五十間多聞長屋などの壁にある『窓』は、戦闘時に死角ができないように交互にずらした造りが採用されています。
優雅な城のデザインと思えば…そこには戦国時代の攻防から得た技術の集積でした。
五十間多聞長屋から、右手にある菱櫓への景色。
水堀が乾いていたのは惜しかったです。 やはり城の周囲の濠は美しさのポイント。
実は、金沢城下町には『惣濠』という長く大きな二重の濠が廻らされていたのです。
まさに濠は、城を守る最終防衛ライン。
内側の濠に囲まれるのは重臣の邸や家臣の住まいが立ち並びます。
外側の濠によって形成される城下には、下級武士や商人の家。
その領域から出れば、寺社が各地に配置されて有事には出城として戦闘に参加しました。
城そのものを強化すれば、幕府から謀反の疑いをかけられる…。
城下町も含む、目立たない小さな防衛線を複合(または多層)させたレイヤー構造が後々まで守りの要でした。
つまり、加賀藩は城下の配置を詳細に掌握していたということ。
サッカーのように団結した総合力で守る加賀藩。
金沢城は、尾山の地形を弱点としないように、ランドスケープアーキテキチャーを駆使した興味深い城郭だったということでしょうか。
美しいばかりではない…凛とした才知ある、貴女のようでしょう。
金沢城は英知で防衛する庭園の要塞?。
尾山という丘陵地を中心に本丸を置き、ひな壇のような配置を展開します。
形式は平山城の『階郭式縄張り』の城郭。
その高さは 11,7mある石垣の上に建築された3階建で全高17mです。
『矢の倉』とも呼称される櫓は、つまり武器庫の意味です。
この菱櫓は、麗しい姿でありながら防衛の拠点として監視塔でもあるのです。
建物は平面にすると菱形です。四隅の内角は夫々80度と100度となっていました。
建物構造が菱形をしている場合、それぞれ柱も菱形をしています。
内部には4本の檜の『通し柱』があり、長さは14m、太さ33cm。
ここに使われた凡そ100本ある柱も菱形をしています。
菱櫓の建築には、いかに高度な技術が要求されたかが解ります。
強度を保ち、耐震建築の先駆けのような工法も使われています。
床下を見ると『土台』、そして梁と並行に『足固め』と呼ぶ太い材木を縦横に組み付けています。
三の丸側の石垣の上に載せた『足固め』は、中央の礎石上に建物の重心中心寄りに働く仕掛けです。
もし大きな規模の地震で石垣が崩れても、建築物を崩壊させないように礎石の配置などが力学的に計算されています。
また、壁面に隠れていますが、柱同士の間に『貫』と呼ぶ木材を真横に通す構造があります。
注目すべき点は、柱の溝と貫の側に…組み合わせる形状が彫られており、柱の構造内で組み付けた後、クサビにより強力に固定された箇所です。
いずれの壁に接した柱も『貫』を使い連結して固定しています。
木材であっても頑丈に地震災害に耐える構造です。
『耐力壁』と呼ばれる強化構造など複数の部材がアクティブに支える城郭の凄い秘密。
金沢城は戦国時代以降の城郭。 戦いばかりの城砦から進化していました。
やはり、全国の壮麗な城のように天守閣もございました。
いまや幻の五層建築大天守
慶長7年(1602)の落雷により、本丸御殿ごと大火で焼失しています。
翌年から天守台と建屋を再建し始めましたが…三層五階にスケールダウン。
これも幕府への配慮(刺激は控え目)として、『御三階櫓』と称しました。
不運にも宝暦9年(1759)に再度の焼失。
春先には…黄砂も被る高層の天守閣でしたでしょうに…家臣の結膜炎が心配。
再建されれば、観光の目玉になること間違いなし!。
しかし、逆に言えば天守閣がなくても存在感は天下に轟くものを秘めた城郭。
手弱女(たおやめ)なイメージは間違い。益荒男(ますらお)スピリッツ全開!。
繊細さを昇華させた、江戸時代の名城です。
桜の老木やライトアップ機器も立ち並ぶ…水堀を歩いて行くと…

『金沢城・兼六園管理事務所』 があります。

いまや近代的な消火設備で守られていますから、火災には万全の準備がなされます。
実直で真面目な金沢のナイスガイが城を守る。
彼等は、まさに現代のシュバリエ? 加賀藩士そのものですね。
(お困りの際は、お気軽に相談してくださいね。)
芳春院(おまつ)様は、戦国の女丈夫として…自ら徳川家への人質となって金沢を守り。
将軍家から…僅か三歳で嫁いだ珠姫様は、前田家と幕府の軋轢を緩和して磐石な体制を築き…24歳の若さで逝去されました。
まつ様のDNAを受け継ぐ血脈は…利長様(二代藩主)の代で失われてしまったことが悔やまれます。
それでも前田家と加賀藩は、明治時代まで繁栄を続けて生き残りました。
戦(いくさ)だけでなく 守る…とは本当に難しいことですね。
さらに進みますと、城内…二の丸西曲輪なのですが。
『帝国陸軍師団司令部』の建物が現存しています。
ほんとうに金沢城は、マルチパーパスな利用がされてきたのですね。
この石橋を渡ると、手前の門が…
『切手門ですよ。』 (それだけ…?)

周囲とは一線を画す建築物なのに…不思議と違和感は無し。
兵隊さんが出入りしていたところを想像してみます。
モダンな建物には違いない…西洋建築ではありますが、面白くない。
比較すると城郭は芸術品であるのです。 日本の美学の集大成。
いかなる戦争の備えであろうとも、粋な設えがあるのではないですか?。
機能に融合された人間設計、なによりも伝統工芸品に見るような優雅さは秀逸です。
望まぬ殺戮にも礼節や弔う人間の調和があるのも…死が日常の戦国時代から継続する心構えがあるから。
生きるとは、かくも難しいことなのです。
私は… 『敬礼』 いたします。
ここで執務しておられた軍人さんも…もう誰一人生きてはおられますまい。
歴史を見守り続けた『金沢城』…そしてこれからも
つづきます…
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