これまでの物語… (いつから?)
天文15年(1546)、本願寺によって尾山に『金沢御堂』が創建されたことに始まる歴史。
…天正11年(1583)、前田利家様が入城。 本格的に城造りが始まり、加賀藩前田家の居城として発展しました。
さて、城壁(土塀)に不可解な窓?らしき物が設けてあります。
『狭間』(はざま)と呼ぶ木枠です(これは銃眼ですね)。
外部からは小さな穴のみで狙われ難く、内部からは銃や弓矢で攻撃する視界の自由度が高いのです。
『あがき』…と呼ぶ構造なのですが、高い位置から下の敵兵を狙撃するため。
大河ドラマで、山本八重(綾瀬はるか)さんが、会津戦争…『鶴ヶ城』で壮絶な籠城戦をするシーン。
あのように銃撃する兵が使用する小さな窓です。
前田利家公といえば、若き日の槍働きで有名ですが…既に世は銃器の時代。
15世紀前半に欧州で発明された黒色火薬で発砲する銃は、天文12年(1543)日本には、ポルトガル経由で偶然…種子島へと鉄砲が伝来していました。
この火縄銃…永禄11年(1568)には実戦で用いられ、国内で武器のイノベーションが中心でした。
(戦国時代、器用な日本の職工は、銃器を独自に複製し改良に着手しました。)
織田信長の石山本願寺攻略では、本願寺側の鉄砲傭兵集団(根来衆、雑賀衆)が火縄銃を駆使する戦術に苦戦させられました。
(近江の国友や日野、紀州の根来、和泉の堺などの鉄砲鍛冶が有名です。)
天正3年(1575)5月21日に勃発した三河の国『長篠の戦い』では、火縄銃3000丁が、織田信長軍により投入され、武田勝頼の騎馬軍団を完膚なきまでに叩くという快挙(悲劇)を成し遂げています。
装填の扱い難さを三段構えの用法で克服、さらに馬防柵で騎馬を無力化する戦略。戦の概念が完全に覆された瞬間でした。
未曾有の戦国時代、末期には国内に50万丁以上の銃が保有されていました。
日本は…内戦を背景に、世界有数の武装をしていたことになります。
外周の塀に、櫓にと『鉄砲狭間』が造ってあります(隠し狭間もあり)。
前田利家様が入城したのは、『長篠の戦い』から~10年近い歳月が流れております。
信長軍の重臣であり、接近戦も無効化する鉄砲の恐ろしさを知る利家様の経験による城郭。
敵味方に普及した鉄砲の脅威から防衛するために、銃器による武装は基本となっていました。
塀などに無数?の銃眼が設置され、死角を減らし有効な攻撃をすべく準備された城の実態。
『ならぬことは、ならぬのです!』 と…つぶやく凛々しい八重さん
火縄銃など『古式銃』は先込めの前装式銃。
ドラマで、八重さんが撃つ銃はスペンサー銃(後のウインチェスター銃)後装銃となります。
このスペンサー銃は、佐賀藩に主力として配備されていた銃なのだそうです。
金沢城でも長塀の…幅、一間ごとに『銃眼』が配置されています。
ここで兵士(藩士)が銃を構えたのでしょう。
幾度もの苦難を乗り越えて、明治時代まで繁栄を続けた加賀藩の前田家。
優れた名君も輩出した、北陸の大名の栄華は…慎ましくも鮮やかに語り継がれていきます。
石川門の『渡櫓』を通りますと、進んだ右手の碑を読みますと…
荀子の 『学は以って已むべからず』
(学問とは永遠 に続けていかねばならないのだ…という言葉でしょう。)
多分、金沢大学のOBが寄進したのでしょうか?。
幕府崩壊、激動の明治以後には金沢城を『帝国陸軍師団』の拠点としました。
(城内…二の丸西曲輪には建物も残っています。)
昭和24年(1949)に開学した『金沢大学』 (翌年、石川門が重要文化財に指定され)
平成7年(1995)に金大が移転するまでは、城は金沢大学のキャンパスとなっていたのです。
金沢大学の移転後、平成13年(2001)9月より『金沢城公園』として運用されることになりました。
金沢御堂の創建から…実に450余年を経て、一般に開放されたのでした。
下の写真は、『金沢大学誕生の地』を記す記念碑。
広~い敷地の向こうに見える城壁には、やはり鉄砲狭間が並んでいます。
この時間帯に城内を歩く人の姿は僅か…
有料の見学箇所(内部)は終了している時間帯。
静かな金沢城を散歩できるのは…市民の贅沢でしょうね。
夕暮れ時の城郭は、とても美しいのですよ。
『河北門』
ここが金沢城の実質的な正門なのです。
大手側から入城し、河北坂を上がれば…そこは『三の丸の正面』となります。
重要文化財の『石川門』、そして『橋爪門』。
『金沢城の三御門』と呼称されるのが『河北門』なのです。
城郭の大部分半を焼失させた『宝暦の大火』(1759)の後、安永元年(1772)に再建されています。
再建後の河北門が、明治15年頃に失われてしまうまで、城の実質的な正門として機能していました。
こうして130年を経て蘇った…『河北門』
平成19年11月の着工から、平成22年4月に完成するまで約2年半の歳月。
復元の計画にあたって史実を詳細に踏まえ、記録写真や現存している貴重な絵図と文献を解析。
度重なる埋蔵文化財に対する調査結果から導き出された、日本古来の伝統工法に則り、戸室石による石垣積み、白壁は漆喰仕上。
軸組構造など木材の工事、屋根の鉛瓦葺き、仕上部材を加工する現在の石川の匠の技。
その全てを再現するには、石川県の伝統と英知が注がれているのですね。
(ちなみに、鉛瓦というのは戦国のテクノロジー?。 瓦に鉛が混ぜられて焼かれ、長期の籠城戦では溶かした鉛は銃弾の材料にされるのです。)
天保元年(1830)に描かれた『御城中壱分碁絵図』、また明治期に撮影された古写真。
過去からの手紙のように『河北門』を復元するため重要な資料となりました。
埋蔵文化財調査の際に、この場所で発掘された礎石を活かして復元しています。
冬枯れの芝生の色が…なんとなく感傷的にしてくれます…。
高麗門である河北門は一の門、櫓門である二の門、枡形土塀睨み櫓台。
この厚く強固な門扉の先、枡形の内部が二の門に接する正面側。
やはり出窓(出し)の石落し付きになっています。
厚さ3ミリメートルの帯鉄(鉄板)を柱、門扉、梁に鋲打ちして装飾と堅牢な防御が両立されています。
二階櫓部の内部、壁から床にまで、能登ヒバ(檜の一種)材を用いています。
実に立派な梁ですね。
ここは、もしかしたら究極の…どこでもドア…?門の向こうに…ジャンレノさんが(違っ)

もう誰もが忘れてしまった遠い昔の時空に繋がっているのでは…。
翳りゆく…お城で、幼い珠姫様


街の~はずれの旧いお城が



(タイムトラベル…原田真二さん

どんなビンテージもののワインでも、

真新しい河北門の外観にも…風雪に耐えた時代の印象はありません。
しかし、建立した頃の主君や加賀藩士が見上げた門”は、まさにこの姿?。
そう…貴女も初めて知り合った頃から…面影は何ひとつ変っていない。
一筋の普遍の魂、刻を越えて幾度も重なる刹那は…美しい夢でしょうか。
それとも、紅く燃え盛る伽藍。 門徒の血塗られた阿鼻叫喚の地獄絵…
歴史の真実とは?、名も無き兵(つわもの)と…折れた朱槍
大気に混ざる…硝煙と死の匂い…
珠姫様… いまの世も戦争や病苦は…無くなりません。
さのみ人をも恨みまじ…
我が心さへ…
従わぬ浮世なるもの…
憂きも一刻、嬉しさも…
思い覚ませば夢候よ…
つづきまする・・
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