石川門の説明をする前に…
前田利家様が築城したという金沢城
しかし、この場所は蓮如上人が越前の吉崎で行動していた頃に、一向宗門徒に拠り所として開いたといいます。
この加賀の国は、百年の長きに渡り、国人や坊主、そして多くの農民が治めていた土地。
以前の守護大名は富樫政親(富樫氏)でしたが滅亡しました。
ここは尾山と呼ぶ地。 加賀一向一揆が本拠地としておりました金沢御堂。
寺院には本願寺からの阿弥陀如来像が安置されておりました。
彼らがお参りで渡った極楽橋は、いまも城内に残っています。
強力な軍事力を持つ一向宗門徒も、戦国時代に朝倉義景を打ち倒した織田信長により駆逐された歴史です。
金沢御堂の僧侶(堂衆)と坊官は、上杉謙信と共闘するつもりが、謙信が急逝。
信長と激烈な戦闘を繰り返していた大阪では…遂に石山本願寺も降伏し。
結果、柴田軍(織田軍)の加賀侵攻で御堂は灰燼と帰したのです。
(石山本願寺の跡地は後に豊臣秀吉により大阪城が構築されましたね。)
天正8年(1580)…
金沢御堂の跡地には柴田勝家の甥である佐久間盛政の支配地となり…
能登も制圧すると、前田利家に領地として与えられました(まずは七尾城に)。
後に、前田慶次郎も能登にある七尾城に着任したこと…
この当時、佐久間盛政は御堂の跡地に尾山城の城郭を構想し、土塁や堀を工事されました。
以後、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政が討ち死にすると、秀吉から利家様は恩賞として加賀と能登を賜り平定させました。
尾山城に入城した前田利家様は、『金沢城』と改名し本格的な石垣などの拡張が始まりました。
そして…キリシタン大名『高山右近』を招き、彼は有能な城建築の知識をもたらし、大々的に壮麗な金沢城の基礎を築きました。
東西の総構え堀には、まだ続く戦乱への備えが漲るものですね。
強大な宗教勢力を殲滅した後、鎮護と封印の要のように…城を置く戦略。
霊的防護の意味も、また民衆に支配者の威光を示すための手段でしょうか?。
火災も多かった金沢城…。 大阪城も灰燼となり…人々は祟りと恐れたかもしれませんね。
(高地にある仏教寺院には、落雷で幾度も焼失した伽藍の話しはありますが…金沢のある加賀の地の古い気象条件が検証できる面白いエピソード)
宝暦9年(1759)の大火では城郭の殆どが焼失する事態が起こりました。
いまある石川門の姿は、天明8年(1788)再建した門なのですが。
権力者が遷移する度、翻弄される加賀藩も、遂には百二十万石を誇る大名になったのです。
しかし、火災による焼失後の天守閣の再建だけは断念しました。
これは、徳川政権に対する謀反の意志無しという恭順の姿勢を示す配慮ということでしょう?。
それでなくても徳川幕府の執拗な追及は露骨だったといいますから(暗い)。
見事な造りの『石川門』
なんとも丈夫な木組みと金具拵えなのでしょうか。
銅板、鉄、そして鉛などで外装補強。 そして風雪で木が腐敗しないようにと配慮。
実は、ここ石川門は、城の背後にある搦め手口の防備を司る門です。
明和2年(1765)に強固な石垣にすべく改修をしています。
この出入り口は『虎口』と呼ぶものです。
ここだけでも難攻不落の城郭イメージに圧倒されますね。
まさに時代劇のロケ地になれます。
でも…金沢城は、要塞としては決め手に欠ける脆弱なキャッスル(?)。
規模の割に、優しくクリーンな城なのでした。
城下町の各所に、出城のような役目の拠点防衛施設として…寺社群を配置しました。
特に…三代藩主の利常の時代、幕府軍が侵攻してきた際に迎撃すべく計画されています。
金沢市内、野町にある『妙立寺』は、別名で”忍者寺”と呼ばれています。
この寺の内部は、隠し階段や秘密の部屋、落とし穴など~仕掛け満載!。
屋根の頂上には四方を見渡せる望楼まで備えたお寺なのです。
そして、謁見の間は…茶席が設けてあるのです。(主君の重要な会談向け)
こうした寺社は大阪冬の陣の真田丸(曲輪)のように配した砦に見る慎重さも生き残り策。
ジオポリテークの極めは、なんといっても地形の利用なのですが。
金沢城は、犀川と浅野川という清流の一級河川に挟まれております。
死角を武装した寺院で囲み、両脇は天然の濠ともいうべき川で守りを固める。
(奇しくも…滅ぼした一向宗門徒と同じ戦術を採用するあたりが因果?。)
この門前にあった百間濠(蓮池濠)は、現在は道路となり自動車が流れています。
戦国有数の大名の拠点から、江戸時代の戦争無き城への変遷は穏やかさと優美さを備えさせました。
オフホワイトの城からは、高いインテリジェンスが感じられますが…。
あたかも信長が築いた安土桃山城の壮麗な建築様式のように…
叶うなら戦争などしなくていい、平和な政を夢見ていたことでしょう。
唐破風の出窓造り『出し』は、敵兵に対して石を落として戦う仕組みのひとつ。
随所に…防備と美意識の融合が感じられる城の細部。
熾烈な日常が窺われます。
虎の口から入れば…『枡形』と称される区画が設けられています。
高麗門が外部に、右手に直角に進めば、渡り櫓が防守の堅牢な要となります。
その石垣上部には『多聞』を配置して、高麗門から土橋周辺を二重櫓の兵士が見張る仕組み。
一の門は外部に接し、二の門が内部の防衛隔壁として城内への侵入を防ぐ。
現代でも有効な防衛拠点になりうる規模の城。
いまは平和の象徴…。
されど、この座標で遥か昔しの武士は務めを果たしていたことを想う。
門~古い城壁を築く積石は自然のままの状態もあれば。
表面を加工した石を揃えて積み上げています。
切り込みハギ、打ち込みハギという若干の表面加工した石が使われます
布積み、乱れ積み、笑い積み、四方切り合い積みなど様々な工法。
長方形の角石積みなら、表~控えと交互に算木積みしていきます。
裏込め石?などの小石は砂利などと一緒に石垣に詰めて…水捌けを工夫しました。
ちなみに石川門は、正面が切り込みハギ、左側面は打ち込みハギ石垣です。
謎の刻印群に注目せよ!!
この石垣の写真をご覧になると、何か?見えてきませんか。
卍 模様や、○に田…など(顔文字ではないです)
これは城壁の構築時に、作業した人足や石工などの労役に就いた者が刻んだらしいのです。
再建時に発見されたのか…最初から表に向いていたのかは忘れましたが?
よ~く観察すると沢山ありますよ。
卍 …印とかは、御堂に使われていた石材の転用を意味するのかと思っていましたが?。
人は石垣…
ここが石川門の渡り櫓です。
櫓も含めて、文化5年(1808)、二の丸を中心とした大火に呑み込まれ焼失。
さらに明治14年(1881)の火災でも焼失という不運な城でもあります。
最終的に、安政時代の意匠の綺麗な外観に修復されて訪れる人々を今も迎えています。
この絆は、○ンダム?でも壊せないな…きっと。
守りとは難しいことです。 人の心のように…閉ざすことも、開くこともできる。
ある場所の門(ゲート)は、近づくことも出来ない威厳に包まれ…。
強固な門を造り…人々(同胞)を守ろうとした賢人の心を知れば…
自堕落な人間も、子殺しする親も減ると思います。
戦(いくさ)無き世を願い、仏法の花咲く理想郷を…
いまも平和を口にし…殺し合い、奪い、病み、呪う人間たち。
礼節も覚悟もなき…盲従する文明亡者達が徘徊する社会。
憎み貶め欺きあう人間達に進歩はあったのでしょうか?。
城春にして…門を開き、愚かさに汚され…いまだ心は伝わらず。
価値ある遺産を共有し…顧みる価値を失わぬようにしたいです。
ここに生きた人の面影。
石川門渡櫓… 二重櫓などが、美しい文化財としてだけ…
保存され続ける時代でありますように。
拒絶する心、赦す心、侮る心、弾む心、愛する心。
ゲートは心理の境界線でしょうか。
美しさを知るために…伝えるために生きた者達の息吹が聴こえてきませんか。
さあ、奥へと誘うように…広大な敷地に時代絵巻か…。
まつ殿…そなたには花が似合うておる…

つづきは風だけが知っている…
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