日光東照宮の余勢を受けて、江戸時代最強のマイスターを紹介しましょう。
芸術作品だけに留まらず、彼の話題は落語~歌舞伎~講談~常磐津など
既に江戸時代から民衆文化で知られるところでありました。
幕府にとって重要な工事に参加した職人であり、徳川家康を神格化するほどに、彼も名を馳せた。
しかし、史実の中にも…左甚五郎という彫刻師が参加したという記録はない。
実は謎の深い人物なのでした。
下は…紀州東照宮を飾る透かし彫り『天女』。
天女は雅楽の『笙』を吹いているように見えますが?、笙の形を翼を立てて休む鳳凰にも似ており、鳳笙とも呼ばれます。
笙は…匏(ふくべ)と呼ばれる部分の上に円形に配置した17本ある細い竹管、それぞれにに空けられている指穴を押さえ、匏の横に空いている吹口を吹いたり吸ったりする楽器。
音程は、17本の中の15本ある竹管~下の簧(した)という金属の部分を振動させて奏でます。
竹管は共鳴器の役割を果たします。
雅楽のアーティスト、魂の奏者…東儀秀樹さんも美しい音色で天界に誘いますね。
『左甚五郎と京美人図』は、河鍋暁斎の手で明治初期に描かれた屏風絵。
自ら彫った人形に…あら不思議?生命が宿り動き出すという怪異譚。
それに驚く左甚五郎さん(美人の人形は省略…さくら2号ではありません)。
『What happening!』 (どひゃ~っ!)
それとも…見とれているのですか?
(彫刻作業中の顔まで驚いてみえます。)
狩野永徳(桃山時代)など狩野派の絵師が好んだ構図を感じさせる…
『子育ての虎』 (秩父神社)など、彼の彫刻は100を越えます。
東日本では福島県から~西日本では大分県にまでも左甚五郎の作品が残ります。
但し、その実像は一致しないところが不思議そのもの。
古代の大和朝廷で、ヤマトタケルなども…進軍する神武天皇の名もなき兵士達の功を讃える逸話でないかとする説もありますが?。
左甚五郎さんも?隠れた天才名工や職能達のように…腕は残せど名は求めずか。
よって…史上では、いまだに見解が分かれるところです。
また、徳川家の霊廟建設に参加した技能士として…内部の極秘情報に接しており、漏洩防止のために幕府の監視下に置かれたためかも?。
彼もまた…民衆には神格化されたということでしょう。
『野荒しの鶴』(長野市の長国寺は、真田家の菩提寺)
松代藩主の信之(初代藩主)が祀られる『虹梁下』に飾られます。
万治3年の建立といいますから1660年頃。
狩野派の絵師や左甚五郎が装飾に参加したといいます。
この雌雄の鶴は、毎夜ごと村々の田畑を荒らした困り者。
長国寺へと追われて逃げ込み、住職が彫刻に鎖をかけると二度と被害は起きなかったと。
日本昔話し…のようですね。
保護した住職さんが、餌の豊かな遠くへ逃がしたのかな?。
信仰の大らかさや徳を伝える逸話が残されます。
ご存知の日光東照宮にある『眠り猫』。
江戸時代の人気を博す名工の代表作として名高く、近畿地方の『紀州東照宮』にも飾られている彫刻は、構図もソックリ。
これは~日光東照宮の眠り猫。
総数5173体もある東照宮でも異彩を放つ彫刻作品。
脚部は身構えているようにも見えますから、目を閉じて気配”を感じる姿?。
顕在する危機に対する防衛の象徴にも見えます。
千葉県君津市の神野(じんや)寺の『白蛇』。
その創建は聖徳太子様であり本尊の薬師如来像は、太子が自ら彫ったと伝えられます。
鹿野山は房総半島一高い山。
寛永5年(1628)に本堂が再興された際、徳川将軍家光より賜った品々。
その中には…左甚五郎の彫刻といわれる『白蛇』もあります。
このリアル感、どう見ても蛇のミイラ化したもの。
モノクローム写真が迫力…いまにも赤い舌が出そう。
アルピノ個体の『白蛇』は豊作の神様ともされます。 稲作の害獣ネズミ駆除。
また、甚五郎の鋭い自然観察力も感じさせますね。
『鶴と亀』は和歌山県の鎮護、紀州東照宮を飾る壮麗なる彫刻群から。
蓑亀(亀)の表現は、あくまでも霊獣とした古代の姿。 鶴の方は、リアル~写実の風味?。
私が注目しているのは?上方で葡萄を食するように見える獣。
(なんでしょうね複数の尻尾…キツネ、それとも?)
紀州徳川家藩祖の頼宣が、和歌浦を望む権現山(雑賀山)に創建しました。
一度、拝見したい鮮やかな本殿。
かつて紀伊水道を往き来する船舶の動きも掌握できた要所です。
『駆け出しの龍』の二対は、福井県の誠照寺の陽明門(四足門)を飾ります。
ここは、真宗の誠照寺派の本山。 文正元年(1466)建立の門。
彫刻の龍など…改築された江戸時代にアップグレードされたのでしょう。
門が大火災に遭うと、龍の像が駆け出して雷鳴と豪雨を呼んで消火してくれるという伝説。
まさにグレートな左甚五郎の神業…か、幾度もの大火から生き残る陽明門。
いまでも、野鳥が巣も作らない、龍の睨みがきいている不思議ゲート。
富山県魚津市にある桃原寺にある本堂の欄間『水噴きの龍』は、鱗ひとつまで精魂込めたソウル・アート?。
時折~龍が逃げ出したとか、水を噴いた時は必ず火災が発生したという逆のパターン。
住職に棕櫚縄を使って縛られ~五寸釘で封印されるなどと、凄まじいまでの伝説の数々。
飛騨の名工の技を昇華した左甚五郎さんの作品は、まさに生きた彫刻。
当時~依頼した檀家の皆さんも神秘体験をしたのでしょうか。
各地に伝承される芸術観と伝説の レジェンド あり!。
『力士』 人生は~がぶり寄りだ!!
兵庫県姫路市の書寫山圓教寺、性空(しょうくう)上人が開いた寺。
奥の院、開山堂の軒を守るのは『力士像』。
北西の力士像のみ不在?で、あまりの屋根の重さに耐えかね逃亡したと伝わるのですが…。
三人だけで支えるのは辛いでしょうが頑張ってね (むん!)。
左を制する者は、世界を制す!
どんなに腕前が良かろうと、棟札(むなふだ)にすら名前も残らない宮彫り師。
それでも、宮彫り師は江戸時代に於ける寺社建築の装飾に携わる上級者達なのです。
桃山時代の豪華絢爛な寺社を華やかな彫りで豪奢に魅せる技の冴え。
本来は名もなき技巧者が、その名を讃えられる特別な職人の姿。
人間像…『左甚五郎』という存在に人々は夢を見ていたのでしょう。
それだけ、日光東照宮は徳川幕府にとって大名や民衆への権威を示す大事業だったということです。
かの名工が籠彫りなどの技術を駆使し、腕を振るった逸話が誇張されて喧伝されることも、幕府体制には利益となる周到な計算があるからこその伝説。
しかも民衆の動向を掴む上で、講談で語られたり~歌舞伎の出し物になる話は効果的なことなのでしょう。
人気者は…権力者の不都合な敵。
幕府を差し置いて、一介の宮大工が民衆人気をさらえば、本来なら寧ろ咎人扱い。
この辺には江戸の町人文化をコントロールした側面がよく表されていると思います。
(不満や意識をバランスさせなければ社会構造を安定させられない)
庶民パワー
最近、新東名高速が開通した静岡の引佐インターチェンジ付近にある龍潭寺は、あの行基様が開山した寺です。
ここの龍も…また見事な龍の彫り物、そして鶯張りの廊下など貴重な甚五郎作となる数々が日本の至るところにございます。
虎、鳩、猿…果ては架空の動物などの写実的な表現ゆえに、生命をもち動き出したという伝説は各地に絶えません。
特別な物語に触れたい、民衆ならではの好奇心や頑迷さにより語り継がれた『左甚五郎の逸話』。
群馬県の吹き割の滝で有名な、如意観音像など…精巧で緻密製作過程が見えるようです。
このゴッド・ハンド、神がかりの腕をもつ謎の職人が各地に作を残すたび、オーダーした幕府、東照宮と権威も揺るぎないものとなったのでしょう。
権威ある側には献身的に仕えれば徳があると、民衆の指標を示し…見習わせる。
愚かな民の国は繁栄しない。 巧妙に意識をすり替えて懐柔する鎖国。
エンターテイメント性の高さと管理教育システムの多層化こそが、都を離れ数世紀にわたる江戸を中心とした幕藩体制の礎であったはず。
虚構の英雄象までも利用し、閉塞感で窒息しがちな世風を微妙に捌いたいった支配。
閉ざされた天下泰平の世を生きた人々の息吹を否定はできません。
”それが痛快なる人物伝”
神社仏閣を巡り、彼の作という彫刻に触れる機会があれば…貴女も思い出してみてください。
名も知れぬ名工達の誇りと気概を。
創造性と技術の追究に励む姿。
伝搬する物語り…誰でもない…誰か?
御近所のお社に、見事な彫りはありませんか。
それは、もしかしたら…
左 甚五郎さんの旅と伝説は…いまも色濃く日本人の中に生きているのです。
マイスター・ 左 甚五郎
この特集は、資料写真ばかりで申し訳ないです。