果敢に戦うプライベーターのライダーがいた。  革命序曲


サーキットの観戦者は、まだまだレース関係者が占めるのが普通の風景。


栄光も伝えられない…そこが己の魂魄を削るストイックな男達が集い戦う聖地であった時代。


加速する感性の火砕流が迸り、大気圏を突き破る加速で意識を奪う灼熱!。


この時代を前人未到の記録で変えた偉大な英雄 『平 忠彦』さん


(福島県 南相馬市出身)



当時27歳の彼が…レース界を震撼させた寡黙なる主人公。



1982年  念願のYAMAHAワークス・ライダーとなり


1983~85年  全日本選手権ロードレース500㏄クラス 3連覇



厳正なタイムで刻まれた疾風の交響曲に…その心を奪われる。





卓越したライディング・テクニックを駆使し、コンマ1秒の差にも妥協しない。


より速く…より高く、遥かな頂を目指す者達に語り継がれる神速の系譜。



端正な顔立ちと長身は天与の魅力なのか、あくまでも物静かな『彼』のまなざし


どんな名優にも彫刻家にも創れない…スピードの真実を見据えてきた瞳の先。


遂には世界へのNEXT GATE を勝ち取るのだが…







『平 忠彦』さんは、その容姿においてもセンセーショナルでした。


当時、角川文庫により製作された映画 『汚れた英雄』


小説の映画化により、宣伝効果を狙った戦略に呼応するかのように…


『彼』は、主人公の北野アキオ役に扮する草刈正雄さんのレースシーン代役


実際のレース界をトレースするように、多くのレーサーやチームが協力して参加しました



日常に…GPマシンのフルバンクを持ち込んだ男達!。



劇中には、見事な観客数のエキストラが溢れる菅生サーキット・メインスタンドやコーナー見学者が登場しますが?。


この時代には、それほどに正統な二輪レース熱は報じられるはずもなく。 


映画のヒットなどを契機に…社会のイグニッションが点火されたとも言えます。


新たにオートバイに注目する層が拡大、そして浸透した時代でもあるでしょう。




そんな世間の反応などスロットル一吹かし!。



レース界のリアルな生死を賭ける日常は、世人の踏み入れられぬ領域でした。



それでも、小説の主人公の如き『彼』という人物を日本メディアが放っておける訳もなく活躍は多岐にわたる分野へ拡大していきました。




当時も最強のHONDA勢を退けて、栄光のゼッケンYAMAHAにもたらした。



いかなる注目があろうと『彼』の中にある普遍のスピードに対する真摯な姿勢は乱れません。






ブランドを着こなし、甘いマスクでTV画面を飾る男が、極限の速度域で熾烈な戦いを続けるレーサーだなどと、誰が想像できようか。



『自分は…ただのオトコです。』



『彼』の名台詞です。


どこまでも飾らない男だ…、その心には誰しも惹かれる真実が宿る。


(汚れた政治家には到底~真似できない行動…その言葉にオーバーレブする)


あらゆる分野で存在する極めた者の『粋』を感じるのです。


その『疾走り』は…あたかもの舞いのようである。








国内を制した『平 忠彦』さんが、その舞台を世界へと飛躍していく。




1986年 激戦の世界250㏄クラスに果敢な挑戦を開始した11戦の記録!。


国内での優勝ライダーだからとて、勝利の保障などあり得ません…


幾度も『彼』を襲う不運な転倒による負傷、メカトラブルをチームの絆で乗り越えていく。


激痛に朦朧とする意識、根底に残る僅かな望みさえも粉砕される戦い…



強い意志で本気で悩め、傷つけ、己を追い込めるとこまで突き進んでみろ。







開幕戦スペインでのクラッシュと負傷で…過酷な忍耐のシーズンにおいても確実に吸収し精神を研ぎ澄ませ成長しました。


優しすぎる…何故かスタートが苦手な『彼』ですけれど…


傷が癒えた最終戦、予選でのコースレコードを記録するフロントロウに並ぶ姿


サンマリノGPミザノ・サーキットで遂に優勝を果たしたのです。


左肩から…沈み込み、コーナーの出口を見据える瞬間。



沈着冷静で大胆に、ライバル達を蹴散らす疾走で、レーサーの本能を昇華しました。


スタート後、41分53秒後…の事象は先鋭的な魂の記録。







1987年 怒涛の世界500㏄クラスには15戦に及んで魅せた裂帛の気迫!。


マールボロ・レッドの機体 YZR


コンチネンタル・サーカスを転戦する『平 忠彦』さんの苦闘は続きます。



500㏄クラス参戦の初年度に、世界ランキング6位を獲得することは快挙。


YAMAHAワークスライダーとして揺るぎない世界の『平 忠彦』さんへと。







スピードを追い求めた 『彼』は夢の飛翔を果たしました。


世界への挑戦は、膨大な予算と尽力してくれる人々の恩恵あればこそ。



88年シーズンは、内外から活躍を期待されたままGPのレースシーンから撤退しました。


その豊富な経験値をYAMAHAの開発ライダーとして活かす道に転進することに…。




『彼』の活躍を物語る…もうひとつの戦いは、真夏の鈴鹿8時間耐久レース。


1985年より資生堂『TECH 21』チームから参戦し続け


キングケニーの称号で呼ばれるケニー・ロバーツ選手とのペアで参戦するという布陣でスタートした計画。


苦闘の中で、最終ラップでの勝利を逃すという歴史を繰り返しながら…



1990年 GPライダーとしてYAMAHAの僚友エディーローソン選手とのコンビネーションが功を奏し遂に念願の8耐勝利の神話が生まれたことを。



やはり我々日本人ファンには、キング…は平 忠彦さんなのですから。




”二輪界の白州次郎さんと言っても過言ではない”。




爽快感ある TECH21・カラーでライディング。(8耐にて)






ダンディーさは言うに及ばず、真摯な追求姿勢は理論も構築していく科学者や求道師のようだ。


現在は、静岡県浜松市中区にて『タイラ・レーシング』を経営しています。


(ショップ・オリジナルのレストアされた2st車に乗りたい人々は幸せ。)



もちろん、国内YAMAHA  レーシングチームの監督でもあります。





ダンディーな『彼』の華やかさだけに目を奪われてはいけない。


どこまでも誠実に夢を追い続けた一人の男が刻んだ風の軌跡…は汚れない。



『彼』の挑戦した価値ある苦闘にこそ意味があるのです。







時代の駆け抜ける速さに…世界の記憶が薄らいでも、最速の印象は不動です。



尊敬する日本人として、これからも応援しています。



名実共に、我がソウルマスターの一人である『平  忠彦』さん。






(往年のライディングスタイル、少しナチュラルな猫背…”タイラ乗り”?…極めたいです。)