ソビエト連邦パイロットの撃墜王
「リディア・リトヴァク」さんのお話し。
その前に
空の脅威から日本を守る航空自衛隊、その規模から見てみましょう。
人数 約4万7000人 。 戦闘機 約260機、 偵察機 約10機、 輸送機 約50機
空中給油・輸送機 約4機 、早期警戒管制機等 約20機 、地対空誘導弾 6群
(H23年度予算案完成見込・防衛白書より)
当然ながら、主要装備として航空機がメインとなるわけですが
その航空機を操るパイロットになるには?どうしたらいいか。
(1)「航空学生として入隊します」
(2)「防衛大学を卒業して入隊します」
(3)「一般大学を卒業して一般幹部候補生として入隊します」
昔から、戦闘機パイロットへの道は険しい。
さて、「リーリャ・リトバク」さん…という女性パイロットを御存知でしょうか。
彼女はモスクワ生まれのロシア人でした。
マルクス~レーニン主義のコムソモール団員(青年団員みたいなものです)。
20世紀の~1935年ソビエトの航空クラブに入会し、有名なヘルソン飛行教官航空学校を卒業しました。
それだけでもビックリですが。
カリーニン航空クラブに勤めながら経験を積んでいます。
それから~1942年の始め頃には、当時の女性が搭乗する戦闘機航空連隊が新たに編成されました。
なんと飛行時間100時間を記録していたリディアさんは、第586戦闘機航空連隊へと配属されたのです。
彼女が、初めて実戦に参加した飛行は194時2年6月、サラトフ地域の上空でした。
同年の8月には、最初の撃墜スコアを上げたてから。
9月の始めになると、第437戦闘機航空連隊に配属されて、「スターリングラード攻防戦」の防空任務にも参加しました。
愛機のコクピット両サイドには鮮やかに…愛称の「リーリャ」(白百合)に因んだ白百合を描き込んでいました。
まだ、有視界戦闘の時代、多くの敵からは、百合は「白薔薇」と誤認報告されておりました。
ドイツ軍のパイロットからは敬意を込めて「スターリングラードの白薔薇」と呼ばれ怖れられたと…伝わっています。
1942年9月13日のこと、ドイツ空軍が誇るメッサーシュミットBF-109戦闘機、ユンカースJU-88爆撃機の2機を撃墜してみせる活躍!。
単独飛行では初の戦果となり、そうして撃墜スコアを重ねていったのです。
リーリャさんの才能は高く評価され、ソビエト連邦の英雄シェスタコフさんが指揮している第9親衛戦闘機連隊に異動させられました!!。
1943年2月には、中尉に昇進した上に、名誉ある赤旗勲章が授与されました。
彼女は名実共に、撃墜王の片鱗を発揮していったのです。
1943年5月21日…
同じ連隊に配属されていた、彼女の夫でもありパイロットのアレクセイ・ソロマチン親衛隊大尉(ソビエト連邦の英雄)の戦死報告が…。
若いリディアさんは…戦争未亡人となってしまいました…。
悲しい事件の最中、戦争は激化していきます。
彼女が死地へと赴いた…運命的な出撃である1943年8月1日。
この長く壮絶な空中戦では、8機もの敵BF109戦闘機に包囲されながら
苛烈な集中攻撃をかわし続けました。
リーリャさんは、2機の敵機を撃墜しながらも、自らも被弾して墜落…。
以後~行方不明となりました…。
これまでに記録されている、総出撃は168 ソーティーとなり。
(ソーティーとは出撃回数?)
空中戦89回、撃墜11機、協同撃墜3機を記録しています。
戦後…1979年に、ドミトリェフカ村の付近で、彼女の乗機とみられる航空機の残骸が発見されました。
そして傍に埋葬されていた彼女の遺体が発見されました。
長く孤独な時を越えて、戦死が確認されました。
1990年5月5日
旧ソビエト連邦のゴルバチョフ大統領により、彼女の功績を讃えて国葬が行われました。
ソビエト連邦の英雄として表彰され、長く語り継がれていきます。
そのソビエト連邦も1991年12月25日に崩壊してしまいました。
彼女の搭乗機は…
ソビエト製の「ヤコブレフ」
YaK-1(黄色の44号機)
YaK-1B(白色の23号機)
ソ連邦の航空機設計者アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・ヤコブレフさんの
秀作だったようですが。
ドイツ空軍機に対しては性能差で劣勢に立たされ、ソビエトのパイロットは
圧倒的に不利な状況で、操縦技術を駆使しながら~数々の戦果をあげて
いったそうです(私も性能差で不満は言うまい)。
「リーリャ・リトバク」さん…安らかに眠ってください。