五月三日の「憲法記念日」には、
北海道旭川市で行われた
「憲法問題を考える講演会」の講師として、
午後三時から九十分間、演壇に立った。
その講演の冒頭で、
昭和二十二年五月三日に施行された日本国憲法と題する文書は、
「日本の憲法」にあらずと明言した。
当然、当会の主催者は、この西村の「確信」を知る。
従って、私は、
前日の五月二日に、旭川北東の比布町に入り、
私に「旭川に来い」と命じた
鎌田告人比布神社宮司らと酒を酌み交わした。
つい最近まで氷点下二十度の朔北の地で
憂国の同志と深夜まで飲む酒は、格別であった。
そこで、まず「日本国憲法と題する文書」に一瞥した上で、
太古から我が日本民族が維持してきた
「眞の日本憲法」について記すことにする。
わが国は、昭和二十年九月二日、
連合国に降伏してその軍事占領下に入り、
同二十七年四月二十八日、
サンフランシスコ講和条約が発効するまで、
わが国に国家主権が無かった。
従って、わが国が被占領下で国家主権が無い時、
即ち
同二十一年十一月三日に公布され
同二十二年五月三日に施行された
「日本国憲法と題する文書」はわが国の憲法ではない。
その間、
わが国を軍事占領していたSCAP(連合国最高司令官司令部)は、
三十項目に及ぶ、わが国の言論の検閲を実施していた。
その検閲項目の冒頭から三項は次の通り。
① SCAPに対する批判、
② 極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する批判、
③ SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判。
以上の通り、「日本国憲法と題する文書」は、
わが国の憲法ではなく怪文書であり、
こういう文書は、
特別な手続きは一切無用で、無視し、忘れ去ればよい。
その上で、これから、わが国の、
天皇の國の神話に発する
「眞の憲法」について記していきたい。
先ず、「法」は、
現在においては、紙に書かれた「法典」として存在するがほとんどであるが、
紙に書かれない「伝承や、伝統や、慣習や、おきて」のなかにも存在する。
憲法に関しても、
「憲法典」として存在する場合と
「不文の憲法」として存在する場合がある。
現在の我が国には、
既に述べたように「憲法典」ではなく「不文の憲法」がある。
そもそも「憲法典」の歴史は浅く、
その最初は西暦一七八八年のイギリスから独立して制定された「アメリカ合衆国憲法」で、
その数年後に国王の首を斬ったフランスが、憲法典を制定し、
以後、二十世紀後半の一九五八年の
第五共和制憲法(ド・ゴール憲法)まで,
フランスは王制憲法と共和制憲法を
十五回も繰り返し制定しており、
その度に、国内で流血を伴う対立抗争を繰り返した。
このようにして憲法典の制定が世界各国に広がり、
現在、世界の国家のほとんどが「憲法典」を持っているが、
その内容は、近代の社会契約説に基づく、
自由・平等そして民主主義またはロレタリア独裁などの
「近代の知」に発するものだ。
そして、特に
「プロレタリア独裁」を掲げた共産党独裁国家に顕著であるが、
「憲法典」の内容と、当該国家の内実との乖離が甚だしい。
というよりも、それらの国は、
憲法典をプロパガンダの道具にして「ウソ」を書いている。
もっとも、アメリカも、
奴隷制度を維持しながら
アメリカ合衆国憲法を制定しても自慢できるものではない。
以上の例でも明らかなように、
制定された「憲法典」と当該国家の「内実」は一致しないのが普通である。
これに対して、「不文の憲法」は、
国家の現実の歴史と伝統を以て
「不文の憲法」とするのであるから、
「国家の内実」と「憲法の内容」に不一致はない。
そこで、これから、我が国の「不文の憲法」を述べるにあたり、
まず、欧米諸国の憲法との決定的な違いを記しておく。
それは、人間の精神作用を、知情意という
「知」と「情」と「意」の三つに分類した場合、
欧米諸国の憲法が、
既に述べたように「近現代の知」に発するのに対し、
我が国の不文の憲法は「太古からの情」に基づいていることだ。
この日本と欧米との違いは、
フランスの社会人類学者のクロード・レブィ=ストロース(一九〇八~二〇〇九年)が、次の通り指摘した西洋と日本の歴史の決定的な相違から生まれるものだ。
「・・・われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、
ぽっかりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、之とは反対に、
そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆を結んでいられる、
という点にあるのだ。」
では、何故、西洋人は
神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いているのか。
その理由は、
現在のヨーロッパ諸民族が、
古代ローマ帝国内の諸部族であった西暦三九二年、
ローマ帝国が一神教のキリスト教を国教としたことに始まる。
即ち、ローマ帝国内の諸民族は、キリスト教への改宗とともに、
先祖から受け継いできた多神教世界の「神々の記憶」を抹殺されたのだ。
そして、「権力者に統治される民」という存在だけが残った。
これに対して我が国は、
「天照大御神の天壌無窮の神勅」と
大國主神の「國譲り」によって鮮明になった通り、
天皇と民が自他の区別が無くなって一つに溶けこんで
「一つの家族」になった。
即ち、古代の我が国には、
王と民が一つに溶けこんで一体となる
「しらす」という統治原理と、
王が民を一方的に支配する
「うしはく」という統治原理があり、
大國主神は天照大御神に従って、
日本を、自分の「うしはく国」から
天皇と民が家族のように一体となる
「天皇のしらす国」とした。
そして、
この日本が現在に至っている。
即ち、我が国における現在の
百二十六代に至る天皇の統治をもたらしたものは、
まさに「天照大御神の天壌無窮の神勅」と、
之に従った大國主神である。
そして、幕末、吉田松陰は
この神勅を以て神州不滅を確信した。
従って、この「天照大御神の天壌無窮の神勅」こそ、
我が国の「不文の憲法」の中核である。
天壌無窮の神勅
豊葦原の千五百(ちいほ)秋(あき)の瑞穂國は、
是吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。
宜しく爾皇孫(いましすめみま)
就(ゆ)きて治(しら)せ。
行牟(さきくませ)。
寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、
當に天壌(あめつち)の與(むた)窮(きわま)りなかるべきものぞ。
吉田松陰は、
安政六年十月十一日、
獄中から友人堀江克之助に、次の書簡を送り、
同月二十七日正午頃、
伝馬町牢屋敷にて斬首が執行された。
天照の神勅に日嗣之隆興天壌無窮と有之候ところ、
神勅相違なければ日本は未だ亡びず、
日本は未だ亡びざれば、
正氣重ねて発生の時は必ずあるなり。
只今の時勢に頓着するは
神勅を疑ふの罪軽からざるなり。
以上、「月刊日本」への投稿原稿に基づく
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