自主防衛について
我ら日本国民が、
祖国日本の普遍的で根源的な価値、
つまり國體、
即ち、日本の真の憲法、
を自覚していることが自主防衛の前提である。
しかるに、七十七年前に我が国を軍事占領したアメリカを中心とする連合軍は、
我が国からこの自主防衛の前提を奪うために、
我が国の戦前と戦後の連続性を切断する
「日本国憲法と題する文書」を起草した。
従って、この文書の「前文」に曰く、
「日本国民は・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と。そして、
「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と。
その上で、
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」
とは何事か。自主防衛の放棄ではないか。
そして同文書九条には
「陸海空軍はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」
とある。
馬鹿も休み休み言え。
さらに同文書十三条には、
「すべて国民は、個人として尊重される」とあり、
これは、日本国民を、
日本の歴史や伝統や慣習や文化、即ち國體から影響を受けない
「無国籍の砂粒のような個人」であるべしと規定しているのだ。
こんなものは、我が国の憲法ではない。
よって、この文書を無視して、
教育勅語の
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼する」覚悟を固めて、
戦前と戦後の連続性を回復することこそ、
自主防衛の第一歩である。
その為に、まず、昭和天皇が昭和二十年八月十五日に、
全国民に発せられた「大東亜戦争終結の詔書」にある
「朕は茲に國體を護持し得て」、
「確く神州の不滅を信じ」
そして
「誓て國體の精華を發揚し」
という「玉音」を噛みしめ肝に銘じることである。
「教育勅語」と「この玉音」
さらに昭和天皇が戦後初めて迎える元旦に発せられた
「年頭、國運振興の詔書」の冒頭に掲げられた
明治天皇の「五箇条の御誓文」こそ、
我が国の「不文の憲法」である。
さらに、自主防衛を謳う以上言っておく。
「七生報国」が我が国民の「不変の心意気」である、と。
これが、不変であるからこそ、
日本が日本である限り、
楠木正成は幕末から大東亜戦争まで何度でも甦ってきたのだ。
さて、約三千万年前に、ユーラシア東端において、
大陸のプレートと海のプレートとのぶつかり合いによって
開いた溝に海水が流れ込んで日本海が生まれ、
太平洋上に、
七割以上が山岳地帯で平野が少ない、
あたかも山脈の先端が海に浮かんでいるような地形の
日本列島が形成された。
そして、この日本列島は、
ユーラシア大陸の何処よりも
豊かな風土と生物多様性を有していた。
従って、我々の先祖は、この日本列島において、
食を求めて移動して彷徨う必要がなく、
人類最古の安定した定住生活を一万七千年以上維持してきた。
しかも、
人類の歴史上、日本列島でしか起こりえない稀有なことが起こっていたのだ。
それは、外部から定住集落を護る防御壁が無いということだ。
ここから「日本」が生まれた。
ユーラシアと地続きであれば「日本」は生まれない。
何故なら、同時期のユーラシアでは、
人の定住集落には、必ず防御壁が造られている。
後には、定住集落どころか
国ごと城壁で囲もうとした地域もある。
これが今に遺る万里の長城だ。
では、
定住集落を外部から護るための防御壁がない日本列島で
一万年以上の時が経てばどうなる。
森や川や海の幸と恵みに感謝し、
日本の自然に神々が宿ると信じる人々の
穏やかな集落を越えた交流が何世代にわたって重なってゆく。
そして、日本列島に、
「万世一系の天皇を戴く一つの家族の國」
が生まれた。
十四世紀、北畠親房は、支那や天竺と比べると
日本のみが開闢以来万世一系の天皇を戴いていることを以て
「大日本は神國也」(神皇正統記)と宣言し、
二百五十年後の十六世紀の末、豊臣秀吉は
「日本は神國たる處、きりしたん國より邪法を授け候儀、まことに以てけしからん」
と切支丹伴天連追放令を発した。
即ち、秀吉の神國の自覚が、日本を護ったのだ。
その時、戦国時代であった日本は、
良質の鉄砲を造ることが出来たが、
弾を撃ち出す火薬が無かった。
そこで欧州から来訪した切支丹伴天連(キリスト教宣教師)は、
武器商人と奴隷商人と一体となって、
異郷の珍しい貢ぎ物を大名に与えて切支丹に改宗させた。
そして、そのキリシタン大名の領地にある
神社や仏閣を破壊して耶蘇の教会を建て、
武器商人と奴隷商人は、欧州の奴隷市場で売る為に、
大名に一樽の火薬を渡して、
領地から五十名の少女達を受け取っていた。
日本の少女は、聡明で従順だったので欧州の奴隷市場では高値で売れたのだ。
このようにして、
ザビエル来航から島原の乱後の完全な鎖国までの約八十年間に、
日本から欧州やインドの奴隷市場に売られていった少女は
五十万人に上るという。
秀吉は、北九州のキリシタン大名の領地を視察して、
この切支丹伴天連達の行状と本質を知り、
即座に我が國體に反するものと見抜いて
前記の通り「伴天連追放令」を発した。
我々は、秀吉の慧眼に感謝しなければならない。
以上の通り、
「日本を護る」ということは、
単に土地所有権を守るということに留まらず、
「國體を護る」こと「神州を護る」ことである。
よって、自主防衛は、
単に武器だけを揃えることにだけではなく、
先ず、日本の価値、日本の國體に目覚めることを前提としなければならない。
従って、冒頭に記したように、
われわれ一人一人が、日本の真の「不文の憲法」を知らねばならないのだ。
そして、この自覚は、
座学の中で知識として得られるものではなく、
武器を持って祖国を守る訓練のなかで体得されるものである。
しかし、
この祖国を守る訓練が、現在の日本に一番欠けている。
そこで、現在の我が国が学ぶべき
スイス連邦の姿勢を次に紹介したい。
スイス連邦政府は、
「民間防衛」という冊子(全三百十九ページ)を作成し、
全スイス国民に配布している。
まず、その冊子の「前書き」は次のようにはじまる。
国土の防衛は、わがスイスに昔から伝わっている伝統であり、
わが連邦の存在そのものにかかわるものです。
そのために武器をとり得るすべての国民によって組織され、
近代戦用に装備された強力な軍のみが、侵略者の意図をくじき得るのであり、
これによって、われわれにとって最も大きな財産である
自由と独立が保障されるのです。
今日では、戦争は全国民と関係を持っています。
国土防衛のために武装し訓練された国民一人一人には『軍人操典』を与えられますが、
『民間防衛』というこの本は、我が国民全部に話しかけるためのものです。
この二冊の本は同じ目的をもっています。
つまり、どこから来るものであろうとも、
あらゆる侵略の試みに対して有効な抵抗を準備するのに役立つということです。
・・・一方、戦争は武器だけで行われるものではなくなりました。
戦争は心理的なものになりました。
作戦実施のずっと以前から行われる陰険で周到な宣伝は、
国民の抵抗意思をくじくことができます。
精神=心がくじけたときに、腕力があったとして何の役に立つでしょうか。
反対に、全国民が、決意を固めた指導者のまわりに団結したとき、
だれが彼らを屈服させることができましょうか。
民間国土防衛は、まず意識に目覚めることからはじまります。
われわれは生き抜くことを望むのかどうか。
われわれは、財産の基本たる自由と独立を守ることを望むのかどうか。
・・・国土の防衛はもはや軍だけに頼るわけにはいきません。
われわれすべてが新しい任務につくことを要求されています。
今からすぐにその準備をせねばなりません。
われわれは、老若男女を問わず、
この本と関係があるのです。以上。
このスイスを、
戦後に生きる我々は見習い、戦後から脱却すべきである。
よって我が国政府は、スイス政府と同じように、
「武器をとり得るすべての国民」によって組織され、
近代戦用に装備された強力な軍を創設しなければならない。
また、今すぐ実施できることは、
教員免許の取得には
最低六カ月間の自衛隊入隊を要件とすること、
そして
一定の要件を経た自衛隊員に教員免許を与えることである。
即ち、国を守る訓練を受けた者が、
明日を担う子供達の教育を担当するシステムを創るのだ。
自ら団体生活と団体訓練を経験したことのない者が、
一クラス数十名の子供達の集団を統率できるはずがない。
同時に、日本国政府はスイス政府と同様に、
「民間防衛」という冊子を創り、
それを中学三年生に、
一週間に一講義の割合で一年間教えるべきである。
また、文武両道と言われるとおり、
義務教育のなかに武道を取り入れるべきである。
以上、「維新と興亜」誌に出稿した原稿。
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やはり、安倍晋三国葬儀について、
私の思いの総括を記しておく
令和四年七月八日午前十一時三十一分、
奈良の近鉄大和西大寺駅北口付近の街頭で
銃撃されて死亡した
安倍晋三元総理大臣の国葬儀が、
東京の日本武道館において九月二十七日に行われた。
その時、武道館の外では、近くの九段坂公園に設けられた献花台に花を捧げて追悼しようとする人々の列が数キロにわたって続いていた。人々は、献花まで約三時間並んだという。
また、この献花の長い列と同時に、
「安倍国葬反対」のスローガンを掲げたデモ隊も都内各所で行進していた。従って、この国葬儀に当たり、慰霊の誠を捧げたいと思う人々と、国葬反対を叫ぶデモ隊が、
各所で接触して、
少々小競り合いや言い争いが起こったと報道されている。
但し、一部の国葬反対者が、
この度の安倍晋三国葬儀には「法的根拠がない」と主張していることに関しては、それは間違いである、と明確に申しておく。
法的根拠はある。それは、「行政権は内閣に属する」と記した憲法第六十五条である。
昭和五十四年(一九七九年)九月二十八日に起こった日航機ダッカハイジャック事件を想起されたい。
あの時と同じである。
十月一日、福田赳夫総理は、
日航機をハイジャックした日本赤軍派が、
人質とした乗客解放の条件として提示した、巨額の身代金の支払いと収監されているテロリストの解放要求を受諾した。
この受諾を福田総理自身が「超法規的措置」と呼んだから、
誤解を招いているが、
正確には、
「行政権は内閣に属する」と記した憲法六十五条に基づく
超法律的ではあるが法規的措置である。
この度の国葬儀も法律はないが法規的措置である。
そこで、
如何なる姿勢で本稿を書こうとしているのかを明確にしておく。
これから、「人間の死への深い敬意」を以て本稿を書く。
あの時、安倍晋三君は、
戦場で斃れる兵士のように亡くなった。
ここから、私の中に生まれた「情」を
私は自覚し無視しない。
数学者の岡潔先生は、
晩年に奈良のご自宅で「日本人は情の人である」と語り、
「日本人は情の人であるということを自覚するということが、
今非常にしなければならないことであると本当に分かった」
と続けられた(昭和四十七年三月十二日)。
「情」について書いたので、さらに付け加えたい。
私は、長州人、長州閥というものをあまり好まない。
特に、西南の役で、
敗者となった西郷隆盛の首を兵士に晒し、
椿山荘などの別邸・豪邸をあちらこちらに造り、
権力と財力を握り続けた山県有朋など
特にすかん、嫌な奴だと思う。
また、猪苗代から会津に入る峠の山道の廻りの森には、
点々と名を刻まれない白虎隊員の合葬墓がある。
戊辰の役の時、会津を討伐した長州の部隊が、
会津兵士の遺体の埋葬を禁じ、
遺体は山中や市中に八月から年が明けるまで放置され、
犬やカラスに食い荒らされ腐敗した。
これが長州の奇兵隊がしたことか。
敗れた者にこのような仕打ちをするのは日本人ではない。
猪苗代山中に点々とある合葬墓は、付近のお百姓達が、
見るに見かねて、遺体を埋葬したものだ。
吉田松陰先生は、死の間際に、
小伝馬の牢で二冊の「留魂録」を作り、
牢名主沼崎吉五郎に、
一冊は私の遺体を引き取りに来た長州の同志に渡すことを頼み、
他の一冊は
貴方が持っていて出牢した時に長州人に渡してくれと頼んだ。
その直後、安政六年(一八五九年)十月二十七日斬首された。
沼崎は遺体を引き取りに来た桂小五郎らに「留魂録」を渡した。
しかし、この「留魂録」は長州の同志達に回覧されているうちに行方不明となった。
これに対し、
沼崎吉五郎は小伝馬から三宅島に流されても
「留魂録」を持ち続け、
許されて島から本土に帰ったのは明治七年のことだった。
そして、明治九年、神奈川権令(県知事)野村靖が、
松陰門下の長州人であるのを知り、
彼の前に現れ、「留魂録」を差し出した。
実に、牢内で吉田松陰から「留魂録」を託されてから
十八年の歳月が流れていた。
これが現在、津和野の松陰神社に保管されている
「留魂録原本」である。
しかし、この「留魂録」を
獄中から十八年間持ち続けて野村に渡した沼崎吉五郎は、
以後、飄然と姿を消し、その後の消息は無い。
そこで、「留魂録」(講談社学術文庫)の全訳注者である
下関生まれの古川薫氏は、
次のように書いている。
「野村権令が吉五郎を引き留めて、
何らかの職を与えるくらいはわけもないことだったろう。
・・・生き残り、政府の高官にのし上がっていく長州人の
弱者に対する惻隠の情の薄さを嘆くばかりである。」
そして、私は、安倍晋三君を、
この長州閥の末裔にある恵まれたボンボンと思っていた。
しかし、彼は、
戦場に斃れた兵士のように亡くなったのだ。
その報に接したとき、
何故か咄嗟に、幕末、明治維新期において、
幾度も伊藤博文と共に死線を潜った長州の志士である井上馨が、
伊藤博文が明治四十二年、
ハルビン駅頭で狙撃され銃弾に斃れた報に接し、
「伊藤は、維新の志士のように死んだ」
と伊藤を羨み、
老衰で死ぬであろう自分を嘆いたことを思い起こした。
安倍晋三君も伊藤博文も、共に六十八歳の時に銃弾に斃れた。
まことに、安倍晋三君も、
維新の志士のように死んだ。
これが、
私が謹んで国葬儀に列席した所以である。
同時に、この国葬儀に反対する声が、
日々マスコミで報道されるにつれて、
広がりを見せ、勢いづいた。
この状況を観て、
昨年、東京で開催された第三十二回オリンピックの前に
準備委員会委員長であった森喜朗氏が、
「女性が入ると会議が長くなる」と発言したことに関し、
「女性蔑視」の声がマスコミに煽られて、
遂にオリンピックボイコットの声まで出始めたことを思い出した。
この東京オリンピックボイコットの運動と、
この度の国葬儀反対の運動との違いは、
前者がオリンピック開催と共にピタリと忘れられたのに対し、
後者は国葬儀の最中に一番の盛り上がりをみせたことである。
しかし、これが却って、
この運動の本質を明らかにした。
何故なら、共産党と社民党の委員長が
街頭に立って
国葬儀反対を煽って賛同の拍手をもらっていたからだ。
即ち、国葬儀反対の扇動は、
反日国家と連動した反日運動であった。
大東亜戦争末期の昭和二十年四月十二日、
アメリカ大統領F・ルーズベルトが死去した。
その五日前の四月七日に、
我が国の総理大臣に就任した鈴木貫太郎は、
三月十日のアメリカ軍機による空襲で、
無辜の市民十万人が焼き殺された焼け跡も生々しく、
未だ焦げる匂いが漂う東京から、
同盟通信社の短波放送により、
日本の総理大臣として、アメリカに向けて次の談話を発信した。
「今日、アメリカが我が国に対して、優勢なる戦いを展開しているのは、
亡き大統領の優れた指導があったからです。
私は、深い哀悼の意を
アメリカ国民の悲しみに送るものであります。
しかし、ルーズベルト氏の死によって、
アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。
我々もまた、あなた方アメリカ国民の覇権主義に対し、
今まで以上に強く戦います。」
アメリカに亡命していて、この鈴木総理大臣の談話を聞いた
ドイツ人作家トーマス・マンは、
ドイツのヒトラー総統が、
F・ルーズベルト大統領の死に対し口汚く罵りの言葉を発表していたのを恥じた。
そして、放送で次のように、ドイツに呼びかけた。
「ドイツ国民の皆さん、
東洋の国日本には、なお騎士道精神があり、
人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。
鈴木首相の高らかな精神に比べ、
あなたたちドイツ人は恥ずかしくないのですか。」
鈴木貫太郎首相が、
その無念の感情を押し殺し、高貴な威厳を保って述べた
F・ルーズベルト大統領の死去に対する
アメリカ国民への弔意は、
七十七年後の現在の我々日本人の品位をも保たしめている。
反日運動家の扇動に乗って
安倍晋三国葬儀反対のデモをしていた人々よ、
恥ずかしくないのか。
安倍晋三元総理大臣の最大の功績は、
政権に復帰する時の平成二十四年十二月の総選挙に於いて、
「日本を取り戻す」
そして
「戦後体制からの脱却」というスローガンを掲げ、
選挙に勝利したことである。
この度の安倍晋三国葬儀は、
日本人は
「情の民族」であるということの証(あかし)であり、
日本が取り戻されていた。
即ち、この国葬儀は、
「天皇の知らす国」である日本の國體を顕していた。
そして、
国軍(自衛隊)の発する弔砲で開催が告げられ、
国軍の発する弔銃によって
安倍晋三元総理の御遺骨は見送られた。
まことに、
戦場の兵士のように斃れた安倍晋三君にふさわしかった。
以上、「月刊日本」誌への投稿文より