参院選。応援している候補者が当選しますように。
昨日が大山巌でしたので、今日はその妻である大山捨松(すてまつ)のことを書きます。
実はこの女性、ただものじゃないのです。
日本初の女性留学生であり、日本の女子教育の向上に尽力した人であり、鹿鳴館の花であり、津田塾大学の開祖でもあるのです。
夫の大山巌は、いわずと知れた薩摩藩士です。
そして妻の捨松は、会津藩国家老、山川重固(やまかわしげかた)の末娘です。
戊辰戦争で、薩摩と会津は敵同士です。
にも関わらず、そのふたりが、どうして結婚したのか。
そしてさらには、なぜ女性でありながら「捨松」という名になったのか。
美しい女性でありながら「松を捨てる」とは、ただごとではありません。
このあたりも、興味がわきます。
大山捨松の旧姓は、山川といいます。
山川家は、会津藩国家老の家柄です。
その山川家で、万延元(1860)年に末娘として産まれたた彼女は、幼名を「さき」といいました。
山川さき、可愛らしい名前です。
「さき」は、8歳のときに、会津戦争を経験しています。
慶応4(1868)年の出来事です。
ちなみにこのとき、会津攻めを担当したのが、板垣退助です。
「さき」は家族と共に籠城し、子供ながら、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝いました。
さて、会津戦争のときに城内で篭城した女性たちは、城内の賄いだけでなく、建物内部に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄って、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐという「焼玉押さえ」という作業もしました。
弾が炸裂したら、もちろん命はありません。
8歳の「さき」も、新政府軍の砲弾が次々と飛んで来る中、母や姉たちと一緒に、この焼き玉押さえをしています。
実は城内の女たちは、このときひとつの約束をしていました。
女たちの誰かが負傷したら、武士の情けにならってその者の首を切り落とす。
他の者の足手まといにならないためです。
女たちが、同僚の首を斬り落すのです。
武家の娘というのは、日頃からそうした覚悟を持つように育てられていたのです。
そんな中で、「さき」のすぐそばで、「さき」の義理の姉が砲撃を受けて、大怪我をしました。
「さき」たちの目の前で、兄嫁は血まみれになって苦しんでいます。
もはや助かる見込みはない。
義姉は、絞り出すような声で、
「母上、みなの者、どうか私を殺してください。わたしたちの約束です。お忘れですか。あなたがたの勇はどこにいったのです。早く殺してください。お願いです」と、まさに血を吐きながら、そう頼みました。
けれど、日頃の覚悟と、実際の戦場における情愛とは、葛藤します。
母はすっかり気が動転してしまったし、他の姉たちも、約束を守る勇気を出せません。
それだけ義姉は、日頃からみんなから愛されていた女性だったのです。
そして義姉は、「さき」たちの目の前で、苦しみながら絶命しました。
日頃、「さき」にとてもやさしくしてくれたひとでした。
この事件は、いうまでもなく幼い「さき」の心に、たいへんなショックを与えました。
いまなら、こうしたショックを受けたとき、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの後遺症が問題になりそうなところです。
けれど、たとえ8歳の少女とはいえ、武家としての教育を受けた「さき」は、そうした心的外傷によるストレス障害を起こすどころか、逆に「もはや生きるうえで怖いものなど何もない」という心境に至ったそうです。
「さき」の心の強さもさりながら、江戸時代の武家の教育の勁(つよ)さが伺えるエピソードです。
一方、このときに会津城に、大砲を雨あられのように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長がいました。
それが西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助で、後に「さき」の夫になる「大山巌」その人です。
こんなところにも、運命の不思議さを感じます。
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黒田清隆は、米国の西部の荒野で、男たちと一緒に力仕事をして汗を流す米国婦人たちの姿を観ています。
ですから黒田は、その米国留学に際しては、男子だけでなく、女子も加えたいという意向を固めていました。
黒田のこの提案は、やがて明治政府主導による10年間の官費留学という大掛りなものに発展します。
11歳になっていた「さき」は、この留学に応募しました。
そして見事合格します。
こうして「さき」は、横浜港から米国に向けて出発することになったのです。
母の“えん”は、このとき
「娘のことは一度捨てたつもりでアメリカに送る。だけど学問を修めて帰ってくる日を心待ちに待つ」・・・だから捨てて待つ・・・捨て松・・・そう言って「さき」に「捨松」と改名させました。これが「捨松」の名の由来です。
捨松だって女性です。
米国留学のあと、名を変えようと思えば、いくらでも可愛らしい自分で気に入った名前に変えることができたはずです。
けれど明治を代表する美女であり、美しい大人の女性に育った「捨松」は、生涯、この名で通しました。
自分が留学したときの、母の身を斬るような辛い思いと、自分を信じてくれた母への感謝の気持ちを忘れないためでした。
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当時、大山が43歳、捨松は24歳です。
親子ほども年の差です。
けれど、デートを重ねるうちに捨松は、大山の心の広さや、茶目っ気のある人柄に惹かれていきました。
この頃アリスに書いた手紙の中で、捨松は次のように書いています。
「私はいま、未来に希望がもてるようになりました。自分が誰かの幸せと安心のために必要とされていると感じられることは、ともすれば憂鬱になる気持ちをいやしてくれる、勇気を与えてくれます。
ある人の幸福が、すべて私の手にゆだねられている。
そしてその子供たちの幸福までが、私の手の中にあると感じられる、そんな男性にわたしは出会ったのです。たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」
交際を初めて3ヵ月経った明治16年 (1883) 11月8日、参議陸軍卿大山巌と山川重固息女捨松との婚儀がとり行われました。
そして1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館で、大山夫妻は、内外の賓客を招いて、盛大な結婚披露宴を催しました。
この披露宴には、千人を超える招待客が集ったそうです。
すごいのは、結婚後の大山巌は、芸者遊びなどまったくしないで、妻や子と家庭で過ごす時間を、とても大切にしたといいます。
そして大正5(1916)年12月、大山巌、永眠。享年75歳。
夫を見送った2年後、捨松は、夫のあとを追うように人生の幕をおろろしました。
享年58歳でした。。
ご夫妻のご遺骨は、二人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されています。
ちなみに今日の捨松のお話の中に出てきた鹿鳴館ですが、学校では、外国にお追従するためのふしだらな存在、あるいは明治政府の汚点のように教えられていると聞きました。
しかし鹿鳴館で行われたことは、夫婦で、あるいは家族単位でパーティを開いて交誼を深めるという、当時の列強同士の一般的外交術を日本でも行える環境を作ったものにはほかなりません。
そして鹿鳴館ではじめて行われた捨松のバザーは、日本初の女性看護婦養成所の設立資金となっています。
つまり、鹿鳴館の女性たちの力がなかったら、日本の病院で、女性入院患者の看護を男性がするという江戸時代からのやり方が改善されたのは、もっとずっと後年になってからのこととなったであろうと思うのです。
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