対馬 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

武漢ウイルスで渡れなかった

対馬を訪れて


九月十八日から二十日まで、二年ぶりに対馬を訪れた。

主な目的は、

北対馬の豪族、武末裕雄、聖子父娘が、

令和二年十月に小茂田浜神社境内に建立した宗助國騎馬像

を観るため、

次ぎに北対馬の殿崎の丘で

明治三十八年五月二十七日、

東郷平八郎連合艦隊司令長官に率いる我が連合艦隊が

ロジェストウェンスキー率いるロシアバルチック艦隊を撃破した海域を見渡して

「海ゆかば」を歌うためだ。

これは、


文永十一年(一二七四年)十月六日未明、

突如、忻都(ヒンドゥー)率いる蒙古軍数千が

対馬の小茂田浜に上陸してきた。

対馬守護代宗助国(六十八歳)は、

厳原から八十騎を率いて直ちに出撃し、

小茂田浜において、

先ず矢を射かけて蒙古軍の将官を含む多数を射殺し、

矢尽きた次ぎに、

微笑みながら蒙古軍に突撃して、全騎玉砕した。

敵の大将忻都は、

「自分は色々な敵と戦ってきたが、

このような恐ろしい敵と戦ったのは初めてだ」

と言った。

この宗助國の騎馬像が武末親娘によって

小茂田浜に建立されたのである。

この宗助國像と

皇居外苑の楠木正成像は兄弟像である。

何故なら、

楠木正成は、

宗助国玉砕の二十数年後に生まれ、

未曾有の國難であった元寇における

日本軍の戦いを研究し尽くし、

五十年後に、

宗助國と同じ戦法で少数を以て

十数万の鎌倉幕府軍を千早赤坂で迎撃したからだ。


・・・     ・・・     ・・・

九月十八日の昼下がり、

はるばる北対馬から駆けつけてくれた

武末裕雄さんと、我ら一行二十数名は、

音のしない玉串料を拝殿前の箱に投入して

小茂田浜神社に参拝し、

宗助國騎馬像を拝した。

そして、

翌十九日、一行は北対馬の殿崎の丘に至り、

武末裕雄さんと娘の聖子さんが企画してくれた

日の丸と旭日旗とロシア国旗が翻る下で

バルチック艦隊を撃破した英霊への感謝と

戦没ロシア将兵の慰霊と

同行の「高原あきこさん」の

来年の参議院選(全国比例区・自民党)必勝を祈願し、

「海ゆかば」の斉唱と

萬歳三唱を行った。

なお、この殿崎の丘の麓に

武末裕雄さんが建てた巨大(世界一)な青銅のレリーフは

敵将ロジェストウェンスキー提督を佐世保の海軍病院に見舞う

東郷平八郎提督と秋山真之参謀たちの情景である。


以上の通り、小茂田浜と殿崎を訪れた一行は、

以後、

陸上自衛隊対馬駐屯地を訪れ、

一時間にわたって隊長の話を聞く機会を得た。

私が、隊長に申した意見は、

海岸線が八百キロにわたる山岳地帯で

陸路行軍が困難を極める対馬の防衛の為には、

対馬駐屯の陸上自衛隊は

自分の船とヘリコプターを持たねばならないと思う、

ということだ。

さらに一行は、

対馬に日本の原像があると言われる所以である神社を訪れた。

特に海に鳥居が三つ連なる和多都美神社は

太古の日本の神秘を讃えていた。

対馬は、人口比でいうならば、神社の数が日本一多いのだ。

また明治政府が、

維新後、直ちに要塞化を開始したのは

共に幕末に外国軍艦の侵入を許した

江戸湾(東京湾)と対馬であったが、

我々は、対馬の維新後から昭和初期まで営々と築き挙げられた

巨大な要塞群跡を訪れた。

この巨大要塞群があったが故に、

対馬は樺太のように

ロシア(ソ連)の侵攻(火事場泥棒)を受けなかったのだ。

最終日、一行は、

厳原の対馬藩主である宗一族の墓がある萬松陰を訪れた。

その参道に、

群がる韓国人観光客によって潤っていた時、

つまり武漢ウイルス蔓延前に建てられた

「朝鮮國通信使節之碑」

と大きく刻まれた石碑があり、

その裏面に日本語とハングルで次の説明文が刻まれていた。

日本文は次の通り。


江戸時代の朝鮮通信使

朝鮮通信使は、慶長一二年(一六〇七)から、

文化八年(一八一二)までの間に、一二回来日した

それは、日本と李氏朝鮮との間の、

善隣友好の誼(よしみ)を通わす国家外交の使節でもあり、

一大文化使節でもあった。

時に、正使以下五〇〇名にも及ぶ一行の来日は、

壮麗な絵巻を成し、洗練された学問、芸術と、

絢爛とした異文化の香りを伝えるものであった。

この朝鮮通信使の、有形、無形の行跡は、

現在も各地に色濃く遺り、

近世、日本が鎖国の時代にも、言葉と習慣を異にしながら、

誠信の心による伉礼を交わした隣国と、

その人々へのさらなる尊崇の情念を拡げさせる

世紀を超えて、

今、新しい東アジア国際社会構築の時に鑑み、

朝鮮通信使節の恒久的に有する史的意義への思いを

深くするものである。


そこで、小生、

朝鮮使節は、室町時代から始まり、

豊臣秀吉時代にもあった。

前者は、日本に倭寇の取り締まりを要請するものであり、

後者は、秀吉の朝鮮出兵の意図を探るものであった。

江戸時代の使節は確かに十二回あったが、

と思いながら、

この碑文を見て、

あんぐりと開いた口が塞がらなかった。


朝鮮通信使に関する我が国の記録によれば次の通りだ。

朝鮮使節の連中は、

小便を階段でする、唾やタンを襖にかける。

夜具や食器を盗む。

日本人下女を孕ます。

朝鮮使節使が対馬藩士を侮辱したので、対馬藩士が斬殺した。。

江戸後期の儒者菅茶山は次のように書いている。

「朝鮮より礼儀なるはなしと書中にみえたれど、

今時の朝鮮人威儀なき事甚だし」

また、

日本の「朝鮮聘礼使淀城着来図」の一部には、

鳥を盗んだ使節と町人が喧嘩をしている情景が描かれている。

この碑文は、事実と異なる。

以上、

対馬のことを記した。


次ぎに、

文中に記した「高原あきこ」女史は、

昭和三十七年生まれで、熊本大学教授を辞任して

来年の参議院選挙に飛び出す素朴で勇敢な九州女だ。

二年前に台湾で初めて会ったとき、

世間で生きたことがないウブな大学教授が

選挙に出るというので、

「やめとけ、太平洋で泳ぎに行くようなもんやぞ」

と言って別れたが、

この度、対馬で再会したら、

意気軒昂やり続けとった。

「総裁は、男はあかんぞ、高市早苗君やぞ」

と言ったら、

「私は、高市先生を熱烈に支持します」

と断言した。

諸兄姉、

総理大臣には高市早苗女史!

来年の参議院選挙には高原あきこ女史!

を、よろしくお願いします。


なお、写真若干を次ぎに掲載します。


カメラカメラカメラ


対馬で

小茂田浜神社に建立された宗助國騎馬像と皇居外苑の楠木正成騎馬像。

北対馬の殿崎にあるバルチック艦隊司令官を見舞う東郷平八郎連合艦隊司令長官と幕僚。

要塞の島対馬を示す跡。

万松院に向かう道の曼珠沙華と黒アゲハ。

同じく万松院に向かう道の開いた口が塞がらなかった朝鮮通信使の碑。









西村眞悟FBより


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