五月に入り、度々、沖縄と対馬を思う。
沖縄は、
昭和二十年四月から始まった沖縄戦において、
義烈空挺隊が五月二十四日に敢行した「義号作戦」のこと。
対馬は、明治三十八年五月二十七日の
ロシアのバルチック艦隊との日本海海戦(対馬沖海戦)のこと。
「義号作戦」は
昭和二十年五月二十四日の夜に実施された。
陸軍空挺特殊部隊である義烈空挺隊が
沖縄の嘉手納飛行場と読谷飛行場に強行着陸して
アメリカ軍機破壊と燃料爆破を狙った作戦だ。
義烈空挺隊指揮官 奥山道郎大尉
輸送機編隊長 諏訪部忠一大尉
以下、精悍無比の将兵百六十八名
参謀本部は、義烈空挺隊を、
まずサイパンに突入させようとしたが見送り、
次に硫黄島に突入させようとしたが、これも見送られた。
そして、遂に
末期にさしかかった沖縄戦に突入させることとした。
この間、義烈空挺隊員は猛烈な訓練を続けていた。
その様子を撮影した報道局員が
その想像を絶する猛烈な訓練と隊員の精強さに驚愕したという。
義烈空挺隊 百六十八名は、
十四名ずつ九七式重爆撃機十二機に搭乗して、
五月二十四日18:50、熊本の健軍飛行場を離陸した。
奥山隊長と諏訪部機長は、笑顔で重爆撃に乗り込んでいった。
しかし、
四機がエンジンの不調で途中で引き返した。
残る八機のうち
六機は嘉手納飛行場に、
二機は読谷飛行場に突入することとなり、
21:10 沖縄西方洋上にて90度変針し、
22:00 沖縄本島に達する予定で、
沖縄西方での変針時と、
沖縄本島到達時と、
飛行場突入時の三回、
打電することになっていた。
しかし、三回とも打電なく、
22:11になって奥山隊長機から
「オクオクオク オクオクオク
ツイタツイタツイタ ツイタツイタツイタ」
との打電があった。
以後連絡はなかった。
翌二十五日に沖縄上空を飛んだ偵察機から、
読谷機能喪失、
嘉手納使用制限、
との報告があった。
この時、
義烈空挺隊はなお敢闘中であったが、
事実は、
原田宣章少尉指揮、町田一郎中尉操縦の四番機だけが
読谷飛行場への突入に成功し、
他の七機は、
それぞれ低空で侵入したが撃墜され飛行場に突入できなかった。
とはいえ、
読谷飛行場への突入に成功した四番機から飛び出した
空挺隊員は、
直ちに空港の破壊活動を開始し、
戦闘機や爆撃機など九機を破壊し、
二十九機に損傷を与えて潰し、
ドラム缶600本、合計7万ガロンの石油を焼却した。
そして米兵十名が戦死し、十八名が負傷した。
翌二十五日13:00、
西方の残波岬で、
最後の一人の空挺隊員がアメリカ軍と交戦し射殺された。
義烈空挺隊は、空港破壊の任務を達成してからは、
ゲリラ戦を展開することになっていたからである。
まことに凄まじい驚愕すべき精強さである。
アメリカ軍側の記録によると、
彼らは日本の重爆撃機が爆撃するのではなく
飛行場に着陸するために侵入してきたのに驚愕した。
そして、着陸した一機が相当な成果を挙げたこと、
あと1~2機着陸しておれば
驚異的な損害を生じていたと認めている。
昭和二十年五月二十四日深夜から二十五日の昼に至るまで戦い
玉砕していった百十二名の義烈空挺隊員は
靖國神社に英霊として祀られている。
この五月、出撃前の写真を眺め、
笑顔で行った彼らのことをしきりに思う。
次に、対馬のことを記しておきたい。
日露戦争における日本海海戦百周年を迎えた
平成十七年(二〇〇五年)五月二十七日以来、
毎年、五月二十七日には、
この海戦海域を見渡せる北対馬の殿崎の丘で
日露海戦の顕彰と戦没将兵の慰霊をしてきた。
これを始めたのは地元対馬の有志であり
対馬駐屯の陸海空自衛隊も参加するようになり、
さらに対馬市も参加するようになった。
しかし、昨年は、
武漢ウイルスの為開催中止となり、
数日前、本年も中止するとの連絡が対馬の同志から入った。
残念であるが、
ここで、この対馬における顕彰と慰霊が始まった経緯を
記しておくことにする。
それは、対馬において
「戦後の蒙昧」を破ることであったからだ。
イギリス艦隊とフランス・スペインの連合艦隊との
イギリスの存亡をかけたトラファルガーの海戦は、
一八〇五年十月二十一日であった。
この海戦直前に、
イギリスのホレーショ・ネルソン提督は、
全軍にマストに挙げる信号旗を以て、
England expects
that every man
will do his duty.
(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する)
と告げ、
圧倒的な大勝利のなかで、
敵狙撃兵の銃弾に当たり戦死する時、
「神に感謝する、私は義務を果たした」
と言いのこした。
そこで、
二〇〇五年十月二十一日、イギリスは、
トラファルガー海戦二百周年を記念して、
女王陛下を観閲官にして、
ロイヤル・ネービーの大観艦式を挙行する準備に入る。
他方、我が国は、
トラファルガーの百年後の一九〇五年五月二十七日、
ロシアのバルチック艦隊との
国家の興廃を懸けた日本海海戦直前に、
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、
百年前のホレーショ・ネルソン提督と同じように、
Z旗をメインマストに掲げて
全軍に
「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」
と告げて、戦い抜き、
世界を驚かす圧倒的な勝利をもたらした。
しかし、
イギリスとは正反対で、
我が国政府には、
二〇〇五年五月二十七日の日本海海戦百周年に
何か記念行事を行う素振りは全くなかった。
政府に問い合わせても
海上自衛隊に問い合わせても
きょとんとして反応がなかったのだ。
そこで、
百周年行事をやるべしと思う
対馬の有志と我々東京と大阪有志が、
百周年の一年前に対馬で一同に会し、
「やろう!」
と決めて気勢を挙げたのが始まりだった。
このこと、
当時の古庄幸一海上幕僚長にも伝わり、
翌年の二〇〇五年五月二十七日、
海上自衛隊は対馬に掃海艇を出してくれた。
掃海艇は、
我々とウクライナの外交官夫妻を乗せて
対馬から海戦海域に至り、しばらく機関を停止した。
私は、靖國神社から持参した御神酒を海戦海域に注いだ。
以来、毎年五月二十七日には、
前記の通り海戦海域を見晴らす北対馬の殿崎の丘で
対馬駐屯の陸海空自衛隊の司令も参加して
日本海海戦顕彰と慰霊の会が行われてきた。
しかし、
昨年も本年も武漢ウイルスの為に前記の通り中止となった。
そこで次に、
五年前の一番感銘深く心にしみた顕彰慰霊祭の状況を記し、
最後にロシアと対馬の因縁について述べておく。
五年前の五月二十七日の直前、
いつの間にか参加していた対馬市が、
地元の主催者(同志)に
「海ゆかば」は歌わないでくれ、と言ってきた。
さらに、歌うのならば、対馬市は別の日に行う、
対馬市は、「海ゆかば」を歌うような
右翼団体と共にできない
とまで言った。
そこで、私たちは、
「海ゆかば」を歌わずして
五月二十七日の顕彰と慰霊はない、
対馬市が別の日にやるなら
勝手にやれ、アホ、と返答した。
その上で行われた五月二十七日の殿崎の丘で
私たちは、
実にすがすがしく、心から「海ゆかば」を歌ったのだ。
左翼と左翼に引きずられるアホのいない
対馬の殿崎の丘の五月二十七日は、最高だった。
同様に、左翼と左翼に引きずられるアホが多い
国会は最低なのだ。
ロシアは、一八六〇年に北京条約で沿海州を手にいれると
直ちに太平洋への氷のない通路を確保する為に
対馬を手に入れようとした。
そして、一八六一年三月、ロシアは、
素早く軍艦ポザトニック号を
対馬の浅茅湾に入れて芋崎に入泊させ
兵を上陸させて兵舎を立てて駐兵し、
対馬藩に対して、水、食料そして遊女の提供まで要求し、
付近の村落から物資を略奪し、
抗議をした二人の対馬藩士を殺した(この二人は靖國神社に祀られている)。
その時、
イギリスも同じく対馬を欲し、
軍艦を派遣して武力でロシアを牽制する姿勢を示した。
そこでロシアは、五ヶ月間で対馬から退去した。
しかし、この五ヶ月間で、
ロシアは、この欲する対馬の地形をよく調べている。
それが、四十四年後のロシアのバルチック艦隊の目印になる。
ポザトニック号の停泊した南に聳える山は
白嶽と名付けられた修験道の霊峰で、
頂上は二つの耳が立っているような形の岩である。
ロシア人は、この頂上を「驢馬の耳」と名付けた。
一九〇五年五月二十七日、
ロシアのバルチック艦隊の戦艦オリヨールに乗っていて生き残った水兵のノビコフ・プリボイは、
ロシア革命後に
日本海海戦の状況と日本における捕虜生活を記録した
「ツシマ」(日本名「バルチック艦隊の潰滅」)
という本を書いて第一回スターリン賞を受賞した。
その「ツシマ」の末尾は次のように結ばれている。
「ツシマ島。
この樹木に覆われ、暗礁や断崖で隈どられた対馬は、
左舷の方に取り残された。・・・
この島には、
水先案内が『驢馬の耳』と呼んでいる尖った裸の岩が、
二つに分かれて空高くそそりたっていた。
『驢馬の耳』を持ったこの島は、
今よりツアール政府、暗黒と無言の政権の不名誉を
永劫に記念する記念碑となるであろう。」
なお、この対馬には、
現在、数個の巨大は砲台跡があり、
ここが東洋の「ナバロンの要塞」であったことが分かる。
しかし、この砲台跡に
「海ゆかば」を歌うのを嫌う対馬市の立てている説明板には、
極めてとんちんかんなことが書いてある。
このことは、また何時の日か触れるが、
現在の東アジア情勢の中で、
対馬は、
現在も要塞の島であらねばならないのだ。
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