戸隠神社・我が国、救国回天必至! | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

戸隠山と奥戸隠神社の参道と法燈國師のお母さまの木柱

 

 

西村眞悟FBより。

 

十一月三十日から十二月一日、
第八代孝元天皇の御代(紀元前二百十年)に始まるという
信州戸隠村の戸隠神社と公明院に参拝してきた。

令和の御代替わりにあたり、
先帝と新帝の伊勢神宮参拝から、
我が国の最深かつ最重要の神秘である大嘗祭を経た今、
この一連の天皇の神事の流れの中で、
臣民我も、実に自然とご縁に従い、
天照大御神が閉じ籠もった天岩戸を、
怪力でこじ開けて暗黒と悪鬼の世界に光を取り戻した
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
にまつわる
戸隠に参り、
明治天皇叔母宮尼公より剃髪を賜り
戸隠山に籠もって修行され霊力をもたれた
姫野公明師
という方の開基された公明院に参った。

さて、そこで、
再び、妙な符号があったので、
写真を添付して記しておきたい。

先に、本FBで、僕が高校一年の秋、
楠木正成ゆかりの千早赤坂から金剛山に登り、
奈良側の御所駅を目指して降りた際、
二度と再び見つからなかった
幻想的な美しさの「幻のススキの原」を下り
深遠な森を通って人里に出たと書き、
五十年後に、
そこが実は、
高天(高天原)であったことが分かった、と書いた。

同じ、高校一年の夏、
僕は、信州の「鬼無里」つまり「鬼の無い里」という地名に惹かれ、
その「鬼の無い里」へ行って彷徨こうと決めた。
そこで、
リックサックを担いで東京の上野駅から長野に向かった。
母が、妙に心配そうな顔をして見送ってくれたのを覚えいる。
そして、長野市の木賃宿で一泊し、
翌日、あとは野宿だとバスで鬼無里に向かった。
バスは延々と曲がりくねった狭い山道を登り、
何処で降りたか覚えていないが人のいない山の中にでた。
そして、
「権兵衛峠」を越えようと歩き回ったのを覚えているだけだ。
どこで一夜を過ごし、どこで寐たのか分からない。
翌日、覚えておるのは
小雨の中、疲労困憊して腹が減り、へたり込んで、
最後に残っていたオレンジジュースを飲んだところ、
ポパイがほうれん草を食べたように元気が出て
人里に向かって歩き、たぶん、バスに乗れて、
堺の家に帰った。

そこで、この度(十一月三十日)、
堺から長野に着いた我がスバルOUTBACKのナビは、
戸隠に登るのに、混雑を回避したのか、観光バスが通る広い道を指示せず、細い昔の山道を通らせたのだ。
そして、しばらく登り、
長野市街地では7度であった気温が2度に達した頃、
道が二つに分かれ、
左方向に矢印があり「鬼無里」と書いてあった。
その時、ありゃ!この左が鬼無里か!
やっと分かった。
僕が五十五年前の高一の時、
腹を減らしてうろついた鬼無里は戸隠の隣の村だったのかと。
そして、今登ってきた道は、確かに見覚えがあると。

話は終わらず、
翌日の十二月一日早朝に移る。
午前5時半に起床し、
雪と氷に滑るのを注意して山道を歩き階段を上り
戸隠中社の拝殿で御神楽を観た。
神職の小学生の子供達が舞う御神楽は、
実に見事で、神秘であった。
最期の、天手力雄命が天岩戸を開く御神楽で、
まさに天岩戸が開かれた時、
暗い本殿に数条の朝日が拝殿に射し込んで榊を照らした。
その後、朝食の後、
戸隠奥社に移動して随神門から
戸隠山に向かって一直線に続く杉の巨木が並ぶ雪の参道を歩いた。
その時、道の辺に、
「法燈国師母公祈願観音堂跡」と書かれた木柱があった。
法燈国師(1207年~1298年)の母が、
筑摩郡神林村からこの地に移り、祈願して法燈国師が誕生
したという。
そして、誕生した法燈国師は、
九歳で出家して東大寺で受戒して宋に渡り、
無門の法を嗣いで帰国して由良興国寺の開山となり
母を興国寺に招いて孝行を尽くし、
母の死後、
三十二年間に渡って墓参を続け九十二歳で没した、
と木柱に書いてあった。

さて、高校一年の時に、
隣の鬼無里村を彷徨いていた、この不肖西村眞悟、
高校三年の時の夏休みが始まるや、
寺に籠もって受験勉強に没頭すると母に告げ、
紀州なる由良興国寺に移り、
受験勉強をしたのは二日だけで、
あとは、四十数日間、
午前4時に起きて鐘を衝き、
座禅に没頭して二学期が始まっても学校に戻らず、
それに加えて、毎日、
目黒絶海老師とともに酒を飲み、
東京オリンピックを記念して発売されたタバコ「TOKYO」を吸い、
山林の下草を刈り、
便所のくみ取りをして肥丹後を担い、
風呂を焚き、
池からウナギを捕まえて食らい、
草むらから蛇を捕まえてウナギやといって客に食わせ、
時に、
恋しい、あの子と寐たらぬくいやろなあ、
抱きしめたいなあ、
と妄想しながら、

隻手の公案(拍手したときの片手の音を聞け)を
頭が壊れるかと思うくらい深思し、
禅堂の奥の階段を上った所にある
まことにありがたい法燈国師の像にお水を供え、
山門を下った左の池の堤の近くにある
法燈国師のお母さんの小さな墓に花を供えていた。
お陰で、一浪したが、
この法燈国師開山由良興国寺の日々の無い
俺の人生など、考えられない。

そして、十二月一日の氷点下の朝、
戸隠山に向かう、雪の奥戸隠神社の参道で
法燈国師のお母さんが法燈国師を生むために籠もられた
祈願観音堂の跡に立っていたのだ。
ビックリした。

さて、諸兄姉、
これから、いよいよ、
我が国、救国回天必至!
の時期に入る。
共に、神々を敬い、霊魂の不滅を確信して、
お国の為に尽くそうではないか。

 

令和元年十二月二日(月)