【沖縄が危ない】
石垣島「みのかさ部隊」の真実 私服に鉄かぶと姿で飛行場の建設、補修
ZAKZAK 夕刊フジ沖縄戦で、石垣島は来襲する米軍を迎え撃つ特攻基地の1つだった。当時、島東部にあった旧陸軍白保飛行場からは、多数の特攻機が飛び立った。この飛行場の建設や補修に従事したのが、1944年に、地元住民から召集された506特設警備工兵隊、別名・郷土防衛隊、そして愛称「みのかさ部隊」だ。
なぜ、「みのかさ」なのか?
物資不足の折で軍服は配給されず、着衣はすべて私服だったからだ。当時を知る宮良祐八さん(87)は「雨が降ると、みのかさ姿だった。頭には2、3ミリの薄い鉄板を切り取った鉄かぶとをかぶっていた」と振り返る。靴のない者はわらじを履き、野良仕事のため田畑に出かける格好そのままだったという。
敵機は日本の特攻機を防ごうと、白保飛行場に連日の爆撃を浴びせた。みのかさ部隊は特攻機の離着陸を可能にするため、敵機が去るのを待ち、モッコで土を運び、スコップで弾痕の穴を埋めた。
作業中に敵機が来襲し、機銃掃射を浴びせることもしばしばで、犠牲者が続出した。部隊の一員だった故石垣正二さんは回想録で「血のにじむような思いで補修したら、翌日はまた(敵機が)来襲して破壊していくという具合で、連日の出動に兵は精根も尽き果てていた」と語る。
それでも作業は沖縄戦終結まで続き、みのかさ部隊は「八重山諸島の戦闘では最も功績が多い」と言われたという。
だが、現在の石垣島で、みのかさ部隊の奮闘が学校で教えられることはない。地元関係者は「敗戦で軍事を語ることがタブーになり、忘れ去られた」と話す。
郷土史家の石垣繁さん(76)は「戦争になったら自衛隊だけが戦うと思っている人が多いが、最後は住民も戦わなくてはならなくなる」といい、みのかさ部隊の「教訓」を指摘する。心ならずも召集された住民たちではあったが、70年前の先人たちは、極限状態で死力を尽くした。
沖縄の平和教育では、戦闘に巻き込まれた住民たちが逃げ惑い、日本軍に虐待され、ついには死に追い込まれた、としか教えない。
しかし、石垣島から出撃した特攻隊や、その出撃を後方支援したみのかさ部隊のように、危機に立ち向かった勇敢な人々もいた。彼らは英雄ではなかったかもしれないが、英雄的な人たちだった。
もし、「有事」が再来したらどうなるか。尖閣諸島を抱える八重山諸島では、それは絵空事ではない不安だ。特攻隊や、みのかさ部隊を教えない沖縄の平和教育からは、「白旗を掲げてさっさと降参する」という住民しか生まれないのではないか。
■仲新城誠(なかあらしろ・まこと) 1973年、沖縄県石垣市生まれ。琉球大学卒業後、99年に石垣島を拠点する地方紙「八重山日報社」に入社。2010年、同社編集長に就任。同県の大手メディアが、イデオロギー色の強い報道を続けるなか、現場主義の中立的な取材・報道を心がけている。著書に「国境の島の『反日』教科書キャンペーン」(産経新聞出版)など。