≪アキとカズ 遙かなる祖国≫喜多由浩(85)
「胸を張ることではないが、こんな女たちの世話をするのは私しかいない」
樺太で、同胞の酌婦(慰安婦)を雇い入れ、朝鮮料理屋(遊郭)を経営していた朴大成(パク・デソン)はアキに、こう話した。
公娼制度がまだ残っていた時代である。
朴のように朝鮮人が経営し、朝鮮人の酌婦を置いた遊郭は、大泊、落合、敷香、塔路、真岡などの街のほか、泊岸、内幌、珍内の炭鉱にもあった。
それは、「同胞の男は、やはり同胞の女を求めたから」にほかならない。
樺太における朝鮮人の数は、昭和19(1944)年6月に約2万8千人。くどいようだが、ほとんどが高給に惹(ひ)かれ、炭鉱や企業の募集に応じて自ら樺太に渡った労働者である(朝鮮人への「徴用令」の適用は同年9月から)。
そんな朝鮮人労働者の手記が残っている。
18年に樺太の炭鉱の募集に応じて、朝鮮から樺太に渡った20代後半の男は、新聞広告で求人を見つけた。当時、理髪師として1日2円程度の収入があったが、樺太の炭鉱夫の給与は1日「7円」とあり、それに魅力を感じたという。
炭鉱夫の住まいとして廃校になった学校の校舎を利用した寮が用意されており、娯楽室もあった。
炭鉱夫の仕事は「非常にきついものがあり、現場監督から怒声を浴びせられることがよくあった」と記しているが、「日本人よりも同胞の監督の方がよほど厳しかった」とも打ち明けている。
その一方で、「生涯でこれほど本を読んだ時期はなかった」とし、寮の食堂で働いていた19歳の日本人女性と恋愛関係になったというから、“タコ部屋”などという非人間的な扱いからはほど遠い。2年後には、朝鮮に家を建てる費用として、「800円」を家族に仕送りまでしている。
樺太の朝鮮人炭鉱夫らの相手をした朝鮮人酌婦の稼ぎは、それよりもはるかに多い。貧しい農村の娘であったろう酌婦が、家族のために身をなげうつことは当時の日本人にとっても珍しいことではなかった。
終戦後、樺太の日本人、朝鮮人はソ連によって故郷に帰れなくなった。労働者も酌婦もである。
「ヤケになった同胞は酒と女とばくちに明け暮れた」と朝鮮人の男の手記にはこうあった。
朴は、こんな状況に置かれた同胞の面倒を見ていたといいたいらしい。
(次回は14日に掲載します)