ラララの季節 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【国語逍遥】(45)ゴジラと春 ラララの季節がやってきた 清湖口敏 


ゴジラもラララ…春の陽気に誘われ、ゴジラの像は今にも動きだしそうだ

 核実験で目覚めた怪獣が東京を襲う特撮映画「ゴジラ」の誕生から今年で60年となる。

 ゴジラは「ゴリラとクジラとを合わせた造語」(広辞苑)である。強くて大きなゴリラとクジラを単純にくっつけたにすぎない命名だが、その後にモスラやガメラ、キングギドラなどが続々と登場するに及んで「~ラ」は、怪獣に最も似つかわしい名前として定着していった。

 評論家の呉智英氏は、命名の妙について「怪獣の名をつけるのなら、濁音とラ行音だ、ということになった」「短い音数の中にこれを多用すると異様な感じがする。これが怪獣の名にぴったりであった」(『ロゴスの名はロゴス』)と言い、その根拠として、日本語の固有語には濁音とラ行音がきわめて少ないことを挙げている。

 日本語における濁音とラ行音は、確かに異色ではある。だいいち古代には、濁音やラ行音が語頭に立つ大和言葉は皆無だった。今なら濁音で始まるダレ(誰)も当時はタレと言い、デル(出る)はイヅルと言った。温泉のことを出湯と書いてイデユと呼ぶのもその名残である。

 現代でも、語頭に濁音が来ると負の語感や音感にまみれることが少なくない。同源の語でありながら「振れる」と「(方針が)ぶれる」、「さま(になる)」と「ざま(をみろ)」など、濁音化によって語感が随分と汚らしくなっている。擬音・擬態語でも「ころころ」と「ごろごろ」、「きらきら」と「ぎらぎら」を比べれば、印象の違いは歴然としていよう。

 またラ行音が語頭から避けられた例としては「硫黄」が思い当たる。硫黄は中国由来の語で、本来は呉音でルワウとでも読むべきだったものを、語頭のルが上手に発音できない昔の日本人はユワウと言い、それがやがてイオウに変化したというのが有力な語源説である。幕末期になっても日本人はまだ語頭のラ行音が苦手だったのか、ロシアと発音できない庶民はオロシャと呼んでいた。

 ラ行音が語頭に来る大和言葉を発見したら1億円の賞金を出してもいい。それくらいあり得ないことなのだ-司馬遼太郎もある対談本でそんなことを語っていた(万が一にも私がそれを見つけたときは、どんな方法で泉下の司馬さんに1億円を請求したものだろうか)。

 そんなラ行音だから怪獣への命名に重宝されるのも道理といえば道理なのだが、一方でラ行音は、心地よい躍動感を生起させることも事実である。特にラを重ねたラララやランラン、ルを重ねたルンルンはいかにも軽快で、気持ちが弾む。

 「高原列車はラララララ行くよ」と歌う流行歌もあった。小学校で習った「春の唄」の歌い出し、「ラララ紅(あか)い花束車に積んで、春が来た来た…」には高揚感がいっぱいである。「春のうららの隅田川」(「花」)。「麗(うら)らか」の意の「うらら」は「ラララ」とはもちろん無関係で、万葉集に載る大伴家(やか)持(もち)の名歌「うらうらに照れる春日(はるひ)にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」の「うらうら」が約されたものかと思われる。

 その万葉集全4516首の一番歌は雄略天皇の若菜摘みの御製で、最終4516番目は家持の初春の歌である。つまり万葉集は、春に始まり春に終わっている。そこでつい、まるでらちもないことを考えてみたくなるのである。

 「うらうら、麗らか、うらら」といった春の穏やかでのどかなさまを表す言葉に、語頭を外しつつも「ら」が重なっているのは、はたして偶然だろうか。もしや、冬は寒さに耐えるほかなかったいにしえの人々の春を迎えた喜びが、言葉のうちに思わず知らずラララと出てしまったのではあるまいか…。

 さて、上代ならぬ現在の日本に待望の春がめぐってきた。ゴジラは「♪ダダダン、ダダダン」のマーチに乗って、東京都心を蹂躙(じゅうりん)しながら隅田川へと駆け抜けていった。ならば私は「♪ラララン、ラララン」と、春たけなわの隅田川べりをブラブラするとしようか。