日本人の喜びと寂しさはどこから来るのか-反日の無神経
『言志』編集長 水島 総
2020年の東京オリンピック開催が決まった。
開催決定の瞬間をテレビで見ながら、人々が皆、ぴょんぴょん飛び上がっている姿に、人間というのは本気で喜ぶと、飛び上がって表現するのだと改めて知った。また、多くの人は両手を高く上げ、万歳をする格好で飛び上がり、誰彼かまわず抱き合い、手を握り合っていた。
私は冷ややかに見つめていたわけではない。空を飛べない「有限な」人間が、わずかの瞬間でも、天に腕を突き上げ、何度も空中に飛ぼうとしたり、浮かぼうとする姿に、実際、心打たれていたのだ。
また、互いに抱き合い、一体となり、喜びを分かち合う日本人の姿が無性に愛しかった。そして、この無邪気な人間の姿こそ、古代ギリシャのスポーツ精神、オリンピック精神の本質なのだろうと思った。
有名な「より速く、より高く、より強く」と、近代オリンピック創始者クーベルタン男爵の「(他者に)勝利することではなく、参加することに意義がある」との言葉は、神々には絶対になれない有限な人間が、有限を自覚しながら「にもかかわらず」、人間の限界を極めようとする行為へ参加すること、つまり人間と人間のあり方そのものへの直接的関わりを示している。
つまり、この祭典の本質は、世界と人間に対する究極の「当事者意識」ということだ。
最後の日本の招致プレゼンテーションの時、安倍総理をはじめ、すべてのプレゼンテーターの訴えは、「私が日本だ」、あるいは「私が東京オリンピックだ」という当事者意識で見事に統一されていた。
オリンピックという祭典は、競技する者、場所を提供する者、それを見る者、サポートする者、それらすべてが何らかの形で「参加している=当事者意識」を本質としている。そもそも「祭」そのものが当事者意識で営まれ、祭をする者、見る者すべてが祭それ自体に「成る」ことを基礎としている。
オリンピックに参加することは、現象として、個人や国がオリンピックイベントに参加することだが、その本質は、参加者の個人や国がオリンピックという祭そのものに「成り切る」ことにある。日本のプレゼンテーターたちが、「日本」そのものに成り切ったように、オリンピック祭典そのものに成り切ることだ。
ところが、朝日新聞やNHKなどの左翼メディアやリベラリストたちは、いつも、「国境や民族、イデオロギーを超えて共に歩む」といった美しいオリンピックイデオロギーを喧伝してきた。これは根本的に間違っている。
オリンピックは、変形した世界統一政府のイメージサンプルではない。
個人や国は消えるのではなく、それぞれ国家や個人として、オリンピックという祭典の「当事者」に成るのであり、オリンピックそのものに「成り切る」のである。この違いは根本的、かつ本質的なものだ。
禅学の大家・鈴木大拙は、禅の本質について次のように述べている。
「私が無ければ皆、私」
この言葉は、世界や人間についての究極の「当事者意識」を意味している。個人対自然、あるいは個人対国家、個人対神といった風に、人間個人を独立(孤立)した存在と考える近代的個人主義とは次元の異な
る世界観である。
自然や国家、都市、あるいは「運命」といったものに対してさえ、人間は「対峙する」のではなく、「汝と我」はひとつであり、その当事者であるという人のあり方を示しているのだ。
彼らをつなげ、結びつけるのは、祭典の競技や施設、システムなどの唯物論的空間だけではない。「時間」が彼らをつなげ、オリンピックの当事者にさせ、オリンピックそのものにさせるのだ。
これはマルクス主義を含めて、自由・平等・博愛などの理念でつくられた国に生まれ、社会契約論的な国家観を抱く人間たちにはなかなか理解できない。保守を自称する近代保守主義者にも理解は難しいだろう。新自由主義者と呼ばれる人々や、それと同じ土俵で反対論を展開する人々も同じである。
彼らには唯物弁証法的な発想はあっても、時間軸を取り入れた時空を包摂する世界思想を持てないのだ。
「山も時なり、海も時なり」
(道元『正法眼蔵』「有時の巻」より)
道元禅師が体得し伝えた「悟り」は、時空を包摂した古代人の世界観と通底しながら、実はアインシュタインの相対性理論や量子力学の世界にも達している。
『正法眼蔵』に出会ったとき、私は心底、衝撃を受けた。空間としての世界と時間としての世界をひとつの我が事(当事者)として感受する、時空を包摂した世界観が、古代から現代までつながっていたことに驚愕したのだ。この『正法眼蔵』体験がきっかけで、私は西欧近代主義思考から「日本」に還ることになった。
ゲーテの小説『ファウスト』の終わりに、「時よ、止まれ、おまえは美しい」という有名な言葉がある。この言葉を発している者は、ただ眼前に展開する美しい世界に対峙しているのではない。「世界内存在」として、見るものと、その瞬間=「時間」と、美しい世界=「空間」が主客ひとつに「成り切って」、「私が無ければ
皆、私」となり、もう私も世界もない、時空の融合した一大世界が発した「悟り」の言葉なのである。
つまりは、「祭も時なり、オリンピックも時なり」なのだ。
< 日本という家族のような国家 >
もう一点指摘したいのは、「人類」という枠組みで営むオリンピックが、実は「家族」のイメージと重なりあうことだ。
過去現在未来という時空を包摂し、誰もが当事者として営まれるのが「家族」である。「オリンピック」もまた然りなのだ。「家族も時なり、オリンピックも時なり」である。
このようにして、世界の人々と国家は、オリンピックに参加して、その当事者(家族)になり、オリンピックそのものに成り切る。そして、祭が終れば近代主義の蔓延する世界に散っていくのである。
しかし、私が今さらながら驚くのは、時空を超えた世界観を現実に実現している国が地球上に存在していることだ。
わが日本である。
何よりも「万世一系」の皇室と皇統が、その現実を示している。世界最古の国日本は、神武天皇建国以来、「家族のような国」を目指して来た自然国家である。
自由・平等・博愛という理念によって、社会契約として創られた近代主義国家は、近代人が生み出した「人工国家」であり、制度やシステムで人間を治めようとする唯物弁証法的な世界観に基づいている。
しかし、わが日本は、「家族のような国」を目指して建国され、古代から時空を包摂した自然観、世界観を基に続いてきた自然国家である。国民は「おおみたから(大御宝)」と呼ばれ、その「国民」自体も、単に現在を生きている国民だけでなく、過去を生きた無数の先祖や未来の子孫も、同等に国民(くにたみ)として見なされてきた。国民自体が日本そのものなのである。古モンゴロイドから発生したこの世界観を言い換えると、「八紘一宇」の世界観となる。
天皇という時空を超えた存在を中心に、過去現在未来の国民(くにたみ)が、家族のように、一人一人が当事者として生きる国が日本なのである。西欧近代民主主義とは次元の異なる「民主主義」が続いてきたのである。
戦後日本によってそれは相当程度破壊されたとはいえ、地球上で、わが日本と日本人だけが、唯一、「家族のような国家」を営んできた。少なくともそれを目指して来た。
だからこそ、日本と日本人は、利害や契約関係を超えて、テンニエスの言う「ゲマインシャフト」的祭典・オリンピックを真っ直ぐ現実として実感し、「当事者」として、オリンピック精神をそのまま実現できる可能性があるのだ。東京オリンピックで、「八紘一宇」が文字通り、現実化するかもしれないのだ。
近代オリンピック憲章によれば、オリンピック精神とは、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうことだと記されている。立派な建前だが、現実的には難しいことは一目瞭然である。浅ましい支那・朝鮮の政治利用や金もうけ主義、ドーピング問題などをみればよくわかる。
しかし、「八紘一宇」という日本と日本人のあり方と世界観は、東京オリンピックをきっかけに、いよいよ、21世紀人類のあり方、世界観として、日本が提起し、リードできる可能性が出てきたのではないか。
確かに、甘い考えかもしれない。戦後日本の惨憺たる状態を考えれば、ほとんど夢想に近いことも承
知である。
しかし、「I have a dream」という言葉を残し、人種差別撤廃へ大きな第一歩を印したマーチン・ルーサー・キングという人物もいたではないか。ぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶわが同胞の姿を見ながら、私もオリンピックの夢を語ってみたくなったのである。
< 反日とは「私が日本だ」という当事者意識の欠如 >
ブエノスアイレスで、安倍総理は、「私が日本である」という当事者意識で、間違いなくプレゼンテーションを行っていた。
その姿をテレビで見ながら、安倍総理という存在自体が、現在の変わりつつある「戦後日本」なのだと、改めて了解した。世界の混沌と混乱の自覚、希望と絶望、従属と独立への意志、戦後保守のさまざまな残滓と脱却への決意など、「戦後日本」そのものなのである。
安倍総理自身が、したいこと、しなければならないこと、今はできないこと、やれないこと、不可能なことなど、まるで、自身の身体の「病気」のように、戦後日本の「悪しき病い」を一歩一歩、治癒し、克服していかなければならないのだ。
ただし、ガン治療の抗ガン剤治療が、患者の体力を極度に衰弱させ、場合によっては命を縮める場合もあるように、健全な身体や体力を取り戻すことは、困難な選択と決断が要求される。何よりも必要なのは、治癒と体力回復を実現するための「時間」である。それを無視したり、忘れている人があまりに多い。
TPP問題や消費増税、憲法問題などを考える時、私は安倍晋三という総理が体現している戦後日本という「患者」が、アメリカという「精神」病院の中に入院させられ、カルテや薬をすべて押さえられているという状態を思い浮かべる。
日本という患者は、アメリカという病院と医師たちの指導を拒否して、病院を脱走すべきなのか。あるいは面従腹背で、薬も飲む真似をしながら治ったふりをして、自宅治療を許可されるまで耐えていくのか。
「当事者」として本気で考えなければならないことだ。とんでもない病院から脱出すべきだとしても、脱出後にすぐに捕まって、もっとひどい監禁状態に置かれる可能性も想定すべきなのである。
私たちは「日本国憲法」や「戦後民主主義」「金権物質主義」「TPP参加」などの、不治の病ともいうべきものを体内に抱え込んだ、病んだ戦後日本人なのである。自分の病気に腹を立て、非難するだけでは、あるいは病気をいっぺんに治癒させようとすれば、その身体自体が死んでしまう可能性が高い。
安倍総理は、オリンピック招致を通じて、日本の未来と希望を語った。
本物の希望を語るには、本物の絶望を知る必要がある。私たち日本人は、大東亜戦争の敗北や原爆投下の悲劇を受けて、約70年、目を覆うようなその後の戦後日本の腐敗堕落を目の当たりにしてきた。
絶望的な戦後日本と戦後日本人を絶望的だと批判するのはたやすい。なぜなら、徹底批判されてしかるべきだからだ。
しかし、私は日本人として、その腐敗堕落の責任を、自分たちのせいだとも考えている。
11号に書いたが、特攻隊員たちは、「私が日本だ」という日本人としての当事者意識で、笑顔で出撃して逝った。大東亜戦争や祖国のあり方、政治指導者たちへのさまざまな思いや批判もあったろう。
しかし、彼らの眼前には、戦っている祖国があり、戦っている国民同胞があった。
彼らは傷つき苦しみのたうつ祖国と国民同胞を見捨てなかった。
批判だけですまさなかった。
自分が日本だと、祖国日本のすべてを受け入れた。
戦い、苦しむ祖国の当事者として、粛々と「日本」として戦い、「日本」として仆れ、日本の英霊となられたのである。
私が石原前東京都知事のA級戦犯分祀論を批判するのは、この英霊の心をまったく理解していないからだ。ただ、戦死者に敬意を表しているだけなのだ。
鎮魂というのは、神や仏や英霊と「対峙」しながら感謝やお願いや祈りをするのではない。
鎮魂は、英霊や神仏の思いや祈りを、自分の内なる魂と共有させ、その当事者になることだ。
それを忘れてはならない。
「私が日本である」という自覚も覚悟もなく、当事者意識を持たぬまま、評論家的に日本や米国を批評するだけでよいのか。石原氏がどんなに愛国的な言辞を述べても、私は信じなかった。
今も続く尖閣諸島の寄付金の棚ざらし状態は、それを証明してくれた。
放り出したまま、恬として恥じないのは、「私が日本だ」という当事者意識が決定的に欠けているからである。
この「当事者意識」の欠如した思想構造は、反日左翼とも共通している。
イデオロギーが右なのか左なのかは、実は関係ない。
「私が日本だ」という当事者意識を感じられるか、日本を主語とした思想や運動を担えるかが、転回点に立った戦後日本の私たちに問われている。
それは誇りある孤独、孤立を引き受けることでもある。
先祖を思い、英霊を思い、子孫に引き継ぐ日本「当事者」として思うとき、私たちは明治維新以来、西欧近代世界との格闘と混沌の無惨な戦後日本の現実の中に立っていることに気づく。
古代の人々のように、ストレートに世界や人々、神仏や先祖や英霊に「成り切れない」思いから、深い寂しさが静かに訪れるのである。
葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。
この山道を行きし人あり
かたくなにまもるひとりを 堪へさせよ。
さびしき心 遂げむと思ふに
(釈超空『海やまのあひだ』より)
釈超空の歌は、清らかで底なしの寂しさがある。
戦後日本に生き、それを超克するには、怒りだけでは足りない。
悲しみだけでも足りない。
古代と現代の日本の狭間から、かすかに吹いてくる「かそけき」風の寂しさが、日本を取り戻す力となるような気がする。
釈超空の歌に、私はそれを感じた。