【尖閣国有化1年 国境の島が危ない】
沖縄の「軍神」再評価は偶然ではない。
中国公船の傍若無人と愛郷心。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130904/plt1309041130002-n1.htm
軍神と称えられた伊舍堂用久中佐
沖縄県・石垣島に建立された顕彰碑
今年の終戦記念日に、石垣島、与那国島でそれぞれ、第2次世界大戦で「軍神」と呼ばれた人を偲ぶイベントがあった。日本の安全保障を考える上で重要なポイントとなる2つの国境の島は、沖縄で2人だけの「軍神」の生地でもある。因縁を感ぜずにはいられない。
石垣島では、沖縄戦末期の1945年、慶良間諸島沖で米艦隊に体当たり攻撃した島出身の特攻隊長、伊舍堂用久(いしゃどう・ようきゅう)中佐(享年24、戦死時大尉)と、彼が指揮した特攻隊員の顕彰碑が除幕された。沖縄戦で、石垣島からは中佐をはじめ31人が特攻しており、顕彰碑の台座には全員の名前が刻銘された。
来賓の中山義隆・石垣市長は「自己犠牲をいとわず、国を守る強い思いで戦った若い人の精神性に学ぶべきことは多い」とあいさつした。戦争の「犠牲者」と呼ばれ「犬死」のように語られることも多かった特攻隊が、このように公に評価されることは、近年にない出来事だった。
同じころ与那国島では、外間守吉・与那国町長と町防衛協会が、大舛(おおます)家という一家の墓を参拝していた。1943年、ガダルカナル島作戦で壮烈な戦死を遂げた島出身の大舛松市(まついち)大尉(享年25、戦死時中尉)の慰霊碑が建立されているのである。
大舛大尉は部下を率い、軍刀を手に十数倍の敵に切り込んだといわれ、軍司令官から沖縄出身者で初の「個人感状」を授与された。武功は天皇の耳にも達したという。
町防衛協会は、没後70年を機に初めて参拝し「今後も継続したい」と話す。
伊舍堂中佐といい、大舛大尉といい、戦死時は全国紙で武功が喧伝され「軍神」とたたえられながら、敗戦と同時に急速に忘れ去られた人物だ。しかし今、改めて再評価が進む背景を考えると、1つ思い当たることがある。石垣市は尖閣諸島問題、与那国町は自衛隊配備問題を抱えているのだ。
尖閣問題の深刻化は中国の野心に最大の原因があるが、それを助長したのは「領土を守る」という決意を忘れた戦後日本の堕落にある。尖閣周辺を傍若無人に航行する中国公船からは「決意を持たない国など眼中にはない」という冷たいメッセージが伝わる。
中佐らの再評価が進むことを「軍国主義の復活だ」と警戒する声は地元にもあるが、そうではないだろう。2人が身をもって示した愛国心や愛郷心が、その後の世代に受け継がれていれば、恐らく現在の尖閣問題はなかった。「軍神」の復活は偶然ではなく、1つの警鐘なのである。
■仲新城誠(なかあらしろ・まこと)
1973年、沖縄県石垣市生まれ。琉球大学卒業後、99年に石垣島を拠点する地方紙「八重山日報社」に入社。2010年、同社編集長に就任。同県の大手メディアが、イデオロギー色の強い報道を続けるなか、現場主義の中立的な取材・報道を心がけている。著書に「国境の島の『反日』教科書キャンペーン」(産経新聞出版)など。