避難所の子供達(関東大震災)
早いもので、もう9月になりました。
猛暑だった夏の疲れが一気に出るこの時期、みなさまにはどうかご健康第一にとお祈り申し上げます。
さて、9月1日といえば、ひとつはドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が始まった日(昭和14(1939)年、もうひとつは、関東大震災が起きた日(大正12(1923)年)として記憶されます。
その関東大震災といえば、最近、韓国の歴史学界が、「関東大震災という名称を関東大虐殺と改めるべき」と提案
したのだそうです。
相変わらずウリナラファンタジー全開ですが、おそらく大震災で関東界隈の朝鮮人6千人が殺害されたというデマを利用したものなのでしょう。
ところろが事実は、朝鮮人6千人どころか、その朝鮮人(不逞朝鮮人)によって12万人以上もの日本人が、避難所ごと丸焼けにされたりして、大量に殺害されたというのが、実際にあった出来事です。たいへん残念なことです。
マグニチュードは7.9、まさに巨大地震です。
震源地は、相模湾北西沖80kmの地点で、人口密集地の東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらしました。
ちなみに被害規模は、日本災害史上最大ものです。(注1)
(注1)
地震規模を示すマグネチュードでは、東日本大震災がマグニチュード9.0で、こちらが日本の観測史上最大の地震です。平成7年の阪神淡路大震災はマグニチュード7.3です。
公式に記録されている関東大震災の被害概況は次の通りです。
死者・行方不明者 14万2800人
負傷者 10万3733人
避難人数 190万人以上
住家全壊 12万8266戸
住家半壊 12万6233戸
住家焼失 44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
その他 868戸
ところが不思議なことがあります。
東日本大震災では、地震被害に加えて、津波被害が起き、これに福島原発の事故がこれに重なっています。
それでも東日本大震災による死者・行方不明者は、警視庁のまとめによると、
死者 1万5741人
行方不明者 4467人
合計2万208人です。
ところが関東大震災での死亡者は14万人、この被害規模の差は、いったいどこからきているのでしょうか。
関東大震災において、実際に震災そのもの、あるいは震災時に亡くなったり行方不明になった人は、数千名から1万名程度だったろうといわれています。
つまり、14万人の死者・行方不明者のうち、なんと13万人が、震災そのものではなく、別な理由でお亡くなりになっているのです
では、それはいったい何でしょう。
その答えが、実は「火災」です。
第一の理由は、失火によるものです。
地震の発生時刻がちょうどお昼どきだったため、あちこちのご家庭の炊事の時間を直撃されました。
当時は電機炊飯ジャーなんてありませんから、食事の仕度も毎回かまどで火を焚いていました。
このため地震直後に、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生しました。
さらに能登半島付近にいた台風の余波による強風が重なりました。
このため火が、折からの強風にあおられて、火災旋風を引き起こしながらいっきに広がりました。
そして、炎につつまれた都心部では、残暑も加わって気温がずっと40度を超えるものとなり、ようやく鎮火したのが2日後の午前10時頃だったとされています。
ところが、不思議なことがあります。
たとえば、東京の本所区横網町(現在の墨田区の一部)にあった本所区被服廠では、2万430坪もある広大な敷地内に避難していた人たちが、ここだけで3万8千人も亡くなっています。
集まっていたのは、地震による家屋倒壊や、以後の火災によって焼けだされた人達です。
そこを火災が襲っています。
つまり、地震そのものや、地震直後の火災ではなく、そのあとの避難施設が焼かれています。
実は、震災による直接の死者・行方不明者は、おそらく1万人数千人であったろうと言われています。
関東大震災の死者・行方不明者数は、14万人です。
つまり、12万余の死者、行方不明者は、実は、震災そのものではなく、震災後の二次災害によって亡くなられたのです。
もちろんその中には、同時多発火災によって炎にくるまれた、というケースもたくさんあったことでしょう。
けれど、亡くなられた14万人のうち、12万余は、震災後の二次災害によってその命を奪われています。
では、その二次災害というのは、火災だけだったのでしょうか。
当時の新聞を見てみます。
「朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」
(小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)
「朝鮮人、各所暴動検束数千名」
(小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)
「朝鮮人、横浜~王子放火」
(大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)
「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」
(荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)
「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」
(新愛知 大正12年9月4日号外)
「朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」
(名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)
「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」
(福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)
「朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」
(小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)
「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」
(九州日報 大正12年9月4日号外第三)
「朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」
(大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)
関東の地震なのに、報道は地方のものばかりとなっていますが、これには理由があります。
当時、新聞社は、東京に一局集中していました。
この頃の新聞は、活版印刷といって、一文字ずつ文字を手作業で拾って並べて新聞紙の印刷をしていました。
ところが東京にあった新聞社は、活版印刷のための活字ケースが地震で倒れて活字が散乱し、印刷機能が停止してしまっていたのです。
さらにこれに加えて、東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く13あった新聞社が、すべて社屋を焼失してしまったのです。
このため、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付の夕刊を発行するまで、首都の報道機能は、印刷という部分において完全に麻痺してしまったのです。
そこで大手新聞社の記者や、地方新聞の東京、横浜などの支局員が、関東大震災の模様を取材し、それを地方にある新聞社に連絡し、それを営業できる地方の新聞社が印刷して、各地での号外となっていたわけです。
そして当時の新聞記事を見ると、震災後の混乱の中で、在日朝鮮人たちが連続放火を繰り返したり、略奪、暴行、婦人凌辱等を行い、それらの証拠隠滅のためにさらに放火を繰り返すといった、悪さの限りを尽くしていたことがわかります。
中には、爆弾まで使って放火や略奪、窃盗をしていた者まであり、やむなく陸軍が出動して鎮圧を行っています。
そして政府は、このとき山本権兵衛内閣でしたが、
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不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは、恐れないでください。
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という公式発表まで行っています。
つまり、在日不逞朝鮮人たちによる、略奪や暴行、放火は「事実だった」ということです。
最近では関東大震災において「朝鮮人による凶行はデマであった」という風説が、なぜかまかり通っています。
けれどそれがデマでなかった証拠には、「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」、「不逞ではない朝鮮人保護のため、警視庁は取締りを完全に遂行せよ、との急告通達を出した」(大阪毎日新聞)の報道があります。
警察が暴動の鎮圧に乗り出しているのです。
現代を生きる同胞には申し訳ないけれど、いまよりも、はるかに人々の徳性が高かった時代です。
その時代に、東日本大震災に匹敵する大地震が起きたとして、日本人はそこで暴行や傷害、窃盗、放火、強姦、殺戮などの凶行をするでしょうか。
軍隊の出動が必要なほどの凶行をはたらくでしょうか。
当時、警察には、繰り返し、多数の不逞朝鮮人による事件通報がはいりました。
一方、不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは、青年団を中心に自警団を編成し、朝鮮人たちの暴行に備えています。
山本権兵衛内閣は、「不逞鮮人では無い鮮人」の保護を閣議決定し、彼らの収容を決定しました。
警察では、警視総監の赤池濃(あつし)氏が、「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、水野錬太郎内務大臣に「戒厳令の発布」まで建言しました。
戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。
これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。
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東京付近の震災を利用し、
朝鮮人は各地に放火し、
不逞の目的を遂行せんとし、
現に東京市内に於て爆弾を所持し、
石油を注ぎて放火するものあり。
既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、
各地に於て充分周密なる視察を加え、
朝鮮人の行動に対しては
厳密なる取締を加えられたし。
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更に警視庁からも戒厳司令部宛に
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朝鮮人の中の不逞の挙について、
放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、
現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。
この際これら朝鮮人に対する取締りを厳にして
警戒上違算無きを期せられたし。
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と打電しています。
暴徒と化した朝鮮人を、日本人は恐れました。
そして自然発生的に、若者たちを中心とした自警団も生まれました。
そして自警団は、町に「関所」を設けて、町内や、避難所の安全を確保しています。
そして関所では、朝鮮語に語頭に濁音が来ないことから、「十五円五十銭」とか「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として追い払ったりしています。
なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者まで追い払われてしまったという不幸な出来事もあります。
そして発音のできない者たちが、集団で関所を強硬突破しようとして、争いが起こったり、関所を避けて避難所内に侵入した凶行犯と、自警団がもみ合いになったりという事件が、そこここで起こっています。
以前にも書きましたが、世界中どこの都市でも、何事もない平時においては、人々は普通に仲良く暮らしています。町には笑顔があり、歌や音楽があり、買い物客があふれ、ビジネスマンが忙しそうに働いています。
そんな光景や姿は、世界中、どこも同じです。
問題は、震災などの異常が起きたときです。
世界中どこの都市でも街の治安が一気に破壊され、略奪や暴行が日常化する。
そうならないのは、日本くらいなものです。
ところがその日本で、略奪暴行傷害強盗強姦放火が多起こったのです。
それ、日本人の行動パターンでしょうか。
そして日頃おとなしい日本人が、自警団まで組んでいます。
震災直後の日本人が、そうしなければならないほどまで「追いつめられた」ということです。
横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉氏が、朝鮮人約300名を保護しました。
普通なら、警察がいっぺんに300人も保護するなどということはあり得ません。
1 一部の不逞朝鮮人が悪行を働いた。
2 やむなく日本人が自警団を組んだ。
3 朝鮮人居留区への報復攻撃が行われると、事態がさらに混乱する虞れがあり、やむをえず警察が朝鮮人を保護した、という流れです。
案の定、警察が保護したことを知った地元の自警団約1000人が、犯行を行った朝鮮人たちを差し出せ、と警察にやってきました。
署長の大川氏は、
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり私が諸君らと命の続く限り戦う」と言って自警団の人たちを追い返しています。
さらに大川所長は、「毒を入れたというなら、その井戸水を持ってこい。その井戸水を俺が飲んでみせよう」とまで言って、その場で一升ビンの水を飲み干したりもしています。
こうして署長は、朝鮮人たちを守りました。
たとえ、同胞が殺されたとしても、あくまでもそれは個人の犯罪であり、民族で十把一絡げにしてはいけない・・・これは古来変わらぬ日本社会の姿勢です。
ただ、民族の行動には、パターンがあります。
異常時に凶行犯をはたらく、相手が弱い、もしくは抵抗できない状況にあるとみるや、かさにかかって暴行や傷害、あるいは強姦等を働く。
日本社会には、ほぼまったくみられないこういうパターンが、もちろん全員ではありませんが、いざというときに行動となって現れる。
そういう獣のような行動パターンを持つ人たちが、世の中にはいるのだということは、私たちは民族の経験として、しっかりと記憶しておく必要があろうかと思います。
軍隊も多くの朝鮮人を保護しています。
警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。
殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名にも及びました。
これは、当然のことであろうと思います。
手を出せば、その手を出したことについて、取締がなされる。
それは治安を維持する上で、当然のことだからです。
ただし、それが有罪であるか否かは、また別な問題です。
以前にも書きましたが、「挑発」を受けて、つまり先に被害にあって、これに対応して武力を行使するのは、暴力ではなく、正当な生存権保持のための権利だというのが、世界の常識だからです。
喧嘩を売って、殴られて怪我をしたとしても、殴った側ではなく、そもそも因縁つけて喧嘩を売った方が悪いのです。あたりまえのことです。
本来、震災時にあっては、互いに助け合い、被災者の救助や火災の延焼をみんなで協力して防がなければなりません。
また怪我人を救出したり介抱したり、老人、婦女、子供たちの安全を確保し、食料や水の確保や、安心して用便ができる環境をつくったり、風呂などの用意をしたりと、互いに協力しあって、ひとりでも多くの人が救出され、また安全を確保できるようにしていかなければなりません。
けれど、そういうことがあたりまえに出来るということが、日本にとっては常識だけれど、これまた世界では非常識にあたる。
さらにいえば、生き残った日本人が互いに助け合おうと努力しているところを、一緒に助け合うどころか、逆に暴徒となって日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦し、放火する。
あるまじき行為ですが、そういうことを、混乱時だからこそ、喜んでやってしまう人たちがいたということは、今後においても、しっかりと考え、対応しなければならないことだと思います。
横浜の鶴見警察では、大川署長の男気で、日本人自警団たちも、納得し解散しています。
けれど、似たようなケースで、戦後の混乱期には、警察署そのものが襲撃され、放火されて丸焼けにされたというケースが何件もありました。
このときの関東大震災の問題が再燃したのは、関東大震災から30年経って、人々の記憶から朝鮮人の凶行のの記憶が薄れはじめた昭和28年のことです。
突然、在日朝鮮人たちが「関東大震災のときに朝鮮人達がいわれなく6000人も殺された」と言い出したのです。
戦後、日本にいた朝鮮人達は、GHQによって準戦傷民族の地位を与えられました。
そして朝鮮戦争の勃発によって、大量の朝鮮人達が日本に渡ってきました。
そしてGHQがいなくなり、準戦傷民族としての地位を失いかけた時、突然、朝鮮人6000人が殺されたと言い出したのです。
6000人という人数自体、いきなり降ってわいたような何の根拠もない数字です。
それをいうなら、彼ら朝鮮人によって、12万余の日本人が殺されています。
ところが朝鮮人たちは、「自分たちこそ被害者だ」と言い出したわけです。
非常に卑しい、見下げ果てた主張です。
人は、過酷な極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、同じパターンの行動をとります。
小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口で泥棒をします。
喧嘩でも、大声を出す人は必ず大声で怒鳴りちらすし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手を出します。泣き出す人は先に泣くし、必死に相手を説得しようとする人は、まずしゃべります。
同様に民族的にもそのような傾向があるといわれています。
ドイツ人は激しく自己主張し、ロシア人は大量殺戮、支那人は残虐な殺害を行い、朝鮮人は火病を起こす。
ところが日本人は、過酷な情況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとします。
旧日本軍の軍人さんたちがそうでしたし、近くは東日本大震災や、阪神大震災、新潟地震等でも、同様の行動パターンがみられます。
むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりします。
教育とかそういう次元の問題ではなく、これは民族的DNAのはたらきである、としかいいようがないことなのかもしれません。
こうした傾向は、すべての○○人に当てはまるというわけでは、もちろんありません。
当然、個体差(個人による行動パターンの違い)があります。
朝鮮人でも、立派な人はたくさんいるし、現に関東大震災の際でも、不逞でない朝鮮人達の方が、むしろ数の上では圧倒的に多かったことでしょう。
けれど、悪行というのは、犯行を犯した者が、たったひとりであったとしても、あとあとまで「◯◯人は」といわれてしまう。そういうものです。
ここまで書いてしまったので、あと2つ、お話しを続けます。
大東亜戦争中の話です。
日本軍は、支那事変が始まる以前から、軍属として多くの朝鮮人を雇用していました。
支那事変勃発後からは、朝鮮人にも志願制度が敷かれ、朝鮮人が正規兵として日本軍に参加した。
その頃の話です。
最初にご紹介するのは、中国人が書いた本です。
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【鍼灸医の体験した日本軍の香港占領】
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993年
九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。
頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。
彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。
当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。
製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。
最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。
ところがある日、突然5~6人の「獣兵」が現れ、麻雀をしていた4人の女優を輪姦したという。
前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。
日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。
日本軍が占領下にあった香港では、アヘン販売や売春市場は朝鮮人たちが取り仕切っていた。
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次は、時代がずっと下って、昭和40(1965)年から朝鮮人が参戦したベトナム戦争での出来事です。
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【私の村は地獄になった】
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号
【韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた】
ロン・モロー(バンコク支局長)
韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。
彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)も、ビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。
近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。
残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。
次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。
トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。
トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。
防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。
トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。
戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。
「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ。」
トアイはそう言って泣きだした。
「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。
67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその一人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。
韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。
チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。
「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。
67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。
大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。
チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。
「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
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日本は、大東亜戦争当時に様々な残虐行為を働いたといわれています。
北満州では、当時まだ幼児だった人がソ連軍の侵攻後に、日本に生還して、「ソ連が来た時、軍の官舎はもぬけの殻だった、軍の施設に火を放って、軍人は住民を助けずに逃げた、それを実際に見た」などいう証言もなされています。
ところが、やはり生き残った軍人さんの話を聞くと、ぜんぜん違った筋書きがみえてきます。
当時、日本軍の駐屯施設は満州各所にありましたが、これはどこの戦地でも同じなのですけれども、日本の軍隊は、どの聯隊も、地元組織です。
そして実際に戦闘が始まるというときには日本の内地から来ている聯隊が出動しています。
郷里ごとの軍編成ですから、朝鮮半島出身者(当時は朝鮮半島も日本)による聯隊もありましたが、残念なことに、選ばれ、鍛え上げられた航空隊などと異なり、一般の陸兵においては、半島出身者による聯隊は、日頃は体格も大きく激高し易く、態度も大きくて内地の兵たちよりもはるかに意気軒昂なのですが、実際に戦闘がはじまって、敵弾が飛んで来ると、どんなに言ってきかせても、すぐに「アイゴー」と言って銃を捨てて逃げてしまう。
そんなことから、半島出身者による聯隊は、戦闘時には常に留守番として駐屯地に置いていくのが通例だったのです。
そもそも関東軍は、対ソ戦を前提に構築されていた軍です。
ですから、そのソ連が攻めて来たとなれば、これはすぐに逃げ出すような者達に、戦いを任せることができません。
ですので、あくまでも駐屯地界隈にいる民間人をしっかりと護りぬくことが君たちの使命だと噛んで含めて言い聞かせて、彼らを駐屯地に残し、内地の聯隊が出陣したわけです。
多くの場合、朝鮮籍の聯隊であっても、聯隊長クラスになると、しっかりとした責任感の強い人物が選ばれています。
こういう人たちは責任感もあり、勇気もあるのですが、ところが徴兵されて兵役についている部下たちは異なります。
そして、ソ連がやってくる。自分たちは怖くて逃げたいのに、聯隊長がそれを許してくれないとなると、兵舎に火をつけて、その隙にみんなで逃げ出したわけです。
おそらく、日本側が対ソ戦については、最後まで頑強に抵抗し、たとえば、米国に対しては降伏するけれど、降伏と同時に対ソ戦を米国の支援とともに行うといった外交が行われ、ソ連軍を追い返すという幸運でも起きていれば、その後に火を点けて逃げ出した朝鮮兵たちが集団で逮捕処分され、これは一定の大事件として歴史に記録されたはずです。
しかも逃げた連中は武器を持っていて、その武器を使って逃げ落ちて来る日本人婦女を襲っているのですから、まったく話になりません。
残念なことに、当時の一般の人たちから見れば、日本の軍服を着た人たちが放火をして逃げただけでなく、逃避行のときに、日本の軍服を着て日本の銃を持った人たちに襲われたりしているのですから、当然に、その恐怖は戦後「軍は逃げた」というウワサとなって広がりました。
ベトナム戦争でも、兵による数々の凶行が報告されていますが、その多くは、実は米兵による強姦や傷害よりも、米国と一緒に出兵した韓国兵による凶行の方が、深刻な事態となっています。
実際、大東亜戦争と、ベトナム戦争という二つの大戦を経験した戦後のベトナムには、日本人との混血児はまったくいず、米国人との混血児もほとんどいません。
いるのは、韓国人との混血児ばかりで、これが社会問題化しています。
歴史は学ぶためにあります。
なぜなら歴史は「繰り返す」ものであり、だからこそ民族の記憶、経験として、学び活かす必要があるからです。
最後に、ひとつ書いておかなければならないことがあります。
関東大震災で問題を起こしたのは、「不逞在日朝鮮人」でしたが、そうでない朝鮮人もたくさんいた、というのことも忘れてはならないということです。
終戦直後、朝鮮半島を経由して日本人が帰国するとき、日本人に対して居丈高になって酷い仕打ちをした朝鮮人もたくさんいましたが、その一方で、必死になって日本人を助けようとしてくれた数多くの朝鮮人もいたのです。
だからこそ、多くの日本人が日本に帰ってくることができたのです。
現代においても、在日朝鮮人が日本国内で悪いことをする人もいます。
その一方で、日本人以上に日本的価値観を学び、一生懸命生きている多くの在日朝鮮人もいます。
人はみんな裸で生まれ、死ねば仏様、罪を憎んで人を憎まず、差別をせず、誰に対しても親切する、というのは、日本人の日本人的美徳です。
そうした美徳を備え持ち、日本人以上に一生懸命に学び、誠実に生きようとする人もいる。
そのことは、忘れてはならないことだと思うのです。
終戦直後、日本がまだ貧しかった頃、朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮が、南朝鮮に攻め入り、南朝鮮の李承晩は、同国人を片端から虐殺しながら、南下してついには釜山まで追いつめられました。
このとき戦った朝鮮人の金錫源将軍は、日本の陸士を卒業した方ですが、おなじく日本兵だった経験を持つ韓国人兵士たちの一軍を組織し、まさに帝国軍人の面目躍如といえる勇敢な戦いをされています。
一方、多くの朝鮮人が済州島を経由して、難民として日本に上陸しました。
裸一貫で、何も持たずに日本に上陸してきた朝鮮人たちを、当時の日本人たちは、自分たちが貧しいのにも関わらず、彼らの生活や食事、風呂や衣類まで誠実に面倒をみています。
悪いこともたくさんありました。
けれど、良いことも、ちゃんと歴史に残っています。
残念なことですが、戦後に韓国が建国されて以来、韓国政府が韓国国民のための政治を行ったのは、前・朴政権のときだけです。これによって、韓国は漢江の奇跡と呼ばれる大発展を遂げることたできました。
ところがそれ以外では、韓国の政治は常に韓国の政府高官のフトコロを肥やすことだけのために政治が行われています。
そして昨今の韓国は、まるで昔あった「地元の上場企業を脅してカネをたかる地元暴力団」の姿そのものです。
地域の経済がその企業によって成り立っているのに、その企業をゆすり、たかり、食い物にしようとする。
前民主党政権のときはよいカネになったのに、安倍政権になってから、カネをもらえないので、かさにかかって派手なゆすりを展開しているのでしょう。
けれどそのゆすりに負けてカネをわたしたところで、韓国民の生活はひとつも良くなりません。なぜならそのお金は、全部、上の方の偉い人のフトコロに入り、庶民の生活向上のためには、まったくお金が遣われることがないからです。
大変残念なことですが、私は、韓国は一度解体すべきだと思っています。