またこうも言いました。「普天間基地のある宜野湾市は、市の真ん中が基地につかわれて、ドーナツのようにぽっかりと穴が開いているので、市の南側から北側へ行くのに、つっきることができないから迂回しないと向こう側へ行けません。時間もかかるし、とっても不便です。」「子どもの時、歩いてると見えるんですよ、B29が飛んでいくのが。こわいですよ、これから戦争に行く戦闘機が、沖縄から飛んでいくんです。」
わたしはそれから暫く、低空飛行をしているヘリコプターの音をきくと、戦火の沖縄が思い浮かび、その音をきいては怯えていました。「沖縄は要の石なんだ。基地がなければ普天間の人は不便をしなくてもいいのにな。」そう思ったクラスメイトは多かったのではないかと思います。
先生の言葉をきいてから17年。宝石のように青く輝く海を湛えたわたしたちの島には、今も基地があり、反対の声もおさまりません。
知識や情報が不十分な子どものうちに〝基地(戦闘機)=戦争=こわい〟という大きな恐怖心を抱いてしまった方には、基地の存在意義には議論の余地はないのだと思います。戦争を経験していないわたしが、ヘリコプターの音をきくだけで身がすくんだほどです。経験のある方には、考えるのも嫌なことだとわかります。
嫌だけれども、沖縄に住む以上この議論は避けて通ることはできません。怒りや嫌悪に身を任せずに、考えなくてはならないのです。基地の駐留に賛成の人も、反対の人も、本来の願いは「平和」のはずです。
武力とは、それ自体が悪いものではなく、行使する目的によって人を幸せにしたり、不幸にしたりするものです。
力持ちのジャイアンは、のび太くんを殴っていじめることもできますが、その腕力が無ければ、崖から落ちそうなのび太くんを引っ張り上げて命を救うこともできません。
今、この腕力を使って弱い者いじめをしている国があります。
世界ウイグル協会の議長であるラビア・カーディルさんによると、中国は、はじめにウイグル自治区を設置したとき、「ウイグル人を自由にし、民族の文化を保護し、民族自決を保証し、宗教を尊重する」といいました。ところがこれらの約束はその後全て反故にされたのです。まず知識人、社会的地位のある人、宗教者が処刑の対象になりました。言論の自由・表現の自由・移動の自由を奪われ、やがて言語と宗教にも制限が及ぶようになりました。
中国は琉球独立を支持・扇動し、沖縄を日本から解放した後は前述と同じように沖縄に自治区を設置するでしょう。そして同じように約束は反故にされ、家々にあるヒノカン様の神棚は破壊され、拝みをすると投獄され、それを訴える人がいれば容赦なく武力によって鎮圧されるのです。これが「平和」と言えるでしょうか。
わたしたちが求め続けた弥勒世果報は、こんな世界ではないはずです。
(東京都)