日本全国「みやこ」祭。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。




 つい最近まで、石原慎太郎は「東京都の都は首都の都であり、天皇陛下がおられる東京が都である。従って、都が二つもあることはオカシイ」と主張していた。

ところが、「我々はこれでズッとやってきていますので……」と現府知事に説得されて、自らの主張を撤回したようである。しかし、「これでズッとやってきている」のは国の方であって、今日昨日出来た素性定かならぬ政党の方ではない。

結局、石原は日本に「みやこ」が二つ存在することを容認したことになる。これで縛りは無くなった。二つが許されるなら三つも許されるだろう。そんなに都がいいのなら、日本全国みんな都になればいいだろう。日本全国「みやこ」祭でいいだろう。

大阪都構想、続いての道州制。一体何が目的なのか。政治的に無知であり、人間的に無恥な者、掲げる政策も無く、理想の社会像も持たない人間が、選挙で訴えるのは唯々「改革」だけである。現状認識も無く、何を変えるのかも理解していないが、「改革」の二文字だけは唱え続ける。小さなことが出来ないから、地道な仕事が嫌いだから、「大きなテーマ」を掲げてみせる。「日本を変える、世界に打って出る」と見栄を切る。こんな人間に地元の日々の生活の改善など期待できるはずもない。

「市税で大阪市以外の子供を面倒みる必要ない」 天王寺動物園の入園料で橋下市長
 大阪市は26日、中学生以下は無料にしている市立天王寺動物園(天王寺区)の入園料について、市外の小学生・中学生は4月から200円の入園料を取る方針を決めた。同動物園の年間経費の約7割が市税でまかなわれており、橋下徹市長は「市税で周辺市町村の子供の分まで面倒をみる必要はない」と述べた。
 担当部局が同日、予算ヒアリングで有料化案を提示。「収入を上げることはもちろんだが、負担の公平性を考えた」と説明し、市長は「周辺の市町村で無料を希望するところには分担金を出してもらったらいい」と了承した。これにより、年間2000万円の収入増になるという。
 一方、昨年5月に構想を発表していたホッキョクグマなどの生態をダイナミックに観察できる「極地海洋ゾーン」の整備は市長の指示で凍結された。市長は「大胆な戦略の前に、基本的なサービスがなっていない」と述べ、サービス向上に取り組むよう求めた。

 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130126/waf13012613270017-n1.htm

「関西のリーダーとして、道州制を成し遂げる」と主張している人間が、「市税で周辺市町村の子供の分まで面倒をみる必要はない」と平気な顔で言うのである。入園料を取るなら取るで、一律に取ればいい。大人の分を値上げしてもいい。それが何としても必要ならば、多くの人は納得するだろう。しかし、僅かに動物園の入園料云々だけでも、これだけ自己の主張と矛盾することを言う人間を、誰が信用するというのか。大阪市外に住んでいても、市内で働いている人はいる。主な消費は市内である、という人も多いだろう。

人が動いて、消費が発生して、そしてようやく景気がよくなるのである。こうした当たり前の発想が出来ない人間が、「俺が行政のトップだ、文句があるなら選挙で落とせ」と毎度毎度、何か問題が発生する度に喚くのである。まさに「大阪の貧乏神」「関西の疫病神」そのものである。

たまに正論を吐くと、それに飛び付き、絶賛する人達が居る。本人自らが何度も繰り返し主張しているではないか、「俺は行政のトップだ」と。論の正邪を云々するのは学者の仕事である。行政を預かる者は、それが正論であれ、邪論であれ、その行為によって、極端な不利益を蒙る人が出ないように工夫することが主な仕事である。それが少数意見の尊重の具体的意味であり、「選挙において自らを否定した者をも統べる」トップの責任というものである。

しかしながら、企業の再建屋よろしく、周辺にどれほどの被害を及ぼそうと、それで泣く人間がどれほど出ようと、そんなことはお構いなしに、何の根回しもなく、唐突に、日替わりに、勝手気ままな論法で、自らの主張のみを通そうとする。

それは行政のやり方ではない。しかし、二言目には「組織を率いたことのない人間は黙ってろ」と吠えている。まさに鏡に向かって罵っているようなものである。「非情のコストカッター」として名を売りたければ、政治などに関わらず、企業の顧問弁護士に戻ればいい。それがお似合いである。いや、それぐらいしか出来ないだろう。

短期的に組織を束ね、人間関係もシステムも滅茶苦茶に壊したあげく、「これだけ回収しました」「これだけ節約できました」「それでは、ハイさよなら」といって次の獲物を探すのである。その時こそ、その下品さが最も役に立つだろう。

「文句があるなら選挙で落とせばいい」という発言そのものが、行政を預かる資格の無いことを如実に表している。表現こそ異なるが、その中身は「俺を信任しなかった奴は、トッとと出て行け。何処へでも行ってのたれ死ね」と言っているのと同じである。

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こうした発想で作られる道州制とは、まさに日本国の分断に他ならない。何事においても「周辺に住む人間の面倒までみる必要はない」といって、他の道・州とは明確に分離するつもりだろう。「外交・防衛は国の責任」などという事実上不可能な責任分担を主張して、如何にも「国家の連続性」を確保するような青写真を提示しているが、今回の発言はその不履行を見事に宣言している。

自然環境も、道路も人も、全ては繋がっているのである。「オマエのところでおきた山火事はオマエらで消せ」「地震も津波も被災地だけで決裁しろ」「自分達の不利益になることは一切ゴメンだ」となることは眼に見えている。他人に厳しく、自分に甘い。そもそも「コストカッター」は、まともな経営者ではないことを、大笑いする人間と大泣きする人間しか存在しないようなシステムを目指す人間には、行政を預かる資格がないことを、もうそろそろ国民は気付くべきである。

今一度繰り返しておく。安手の都構想を潰す妙案は、「みんな揃って都構想」である。それを否定する者は、他人に厳しく自分に甘い、自分達だけがその利益を得て、他にはもたらさない、徹底的な利己主義者である。そんなに都がいいのなら、みんなで都になればいい。何故、東京と大阪限定なのか。石原がかねての主張を撤回した今、何故この二つに限定されるのかを聞くべきであろう。

名前を変え、システムを変えたところで、問題は何も解決しない。こんな連中を担いでいる有権者が過半である限り、問題は一切解決しない。最大の問題は有権者の認識にある。有権者が「改革狂」に惑わされている限り、問題は永遠にループして、同じ種類の人間が次から次へと新し仮面を被って登場してくるだけなのだ。有権者は、今こそ長い眠りから目覚めるべき時なのだ。