「実名テロ」に対する補完行為。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。




マスコミは「実名報道」を強行した。連中にすれば当初の予定通りだろう。意図的にリークして、匿名を有名無実化し、関係者が根負けしたところで、「周囲の方々の理解が得られたため」と全面的に公開する。

これを「ペンの暴力」という。
「暴力団」の勝ち誇った顔が見えるようである。

そしてマスコミ各社が競って、被害者の経歴、周辺ネタをこれでもか、とばかりに流している。産経は大学時代の恩師の手記を掲載した。冒頭には「手記を産経新聞に寄せた」とある。

嘘を吐け!

「御願いした」であろう、新聞社が依頼した文章に決まっているではないか。何故このタイミングで、恩師がわざわざ産経を選んで、掲載するに当たって多くも少なくもない、適切な長さの手記を書くことが出来るというのだ。依頼して、受け取った原稿をリライトしたその結果であることは明白である。しかも、相当前から頼んでいたであろうことも容易に想像できる。教員であろうとなかろうと、追悼文などそう簡単に書けるものではないからだ。

マスコミの煽動する方向に沿うつもりは全くないので、「引用の基本的なルール」を逸脱する行為ではあるが、以下は「勝手に匿名」とさせて頂いた。「勝手に実名」というテロ行為に細々と対抗するためである。

「虚構の安心・安全の犠牲者」Kさんの恩師の手記「すまなかった」
 アルジェリア人質事件で死亡したKさん(29)の恩師で、N技科大名誉教授のIさん(66)は25日、Kさんを追悼する手記を産経新聞に寄せた。内容は以下の通り。

優秀な学生
 平成20年3月に修士を修了したK君。学生時代は韓国や南米からの留学生に囲まれるような環境で学んでいた。修了時、教員で出している「材料賞」を授与された優秀な学生だ。その上、私の研究室は修了生に品質保証書を出している。大学の基準で修了していても、私の基準で修了していなければ出さない。
 保証書は中心に私が保証を書き、周囲に研究室関係者が寄せ書きをする形だ。九州男児らしく勇猛果敢で正義感と積極的な行動力を持ち、好奇心旺盛なK君の寄せ書きには、いかに思いやりのある優しい人か、いかに思いやりのあるリーダーかが書かれていた。今回の事件でも部下をかばいながら犠牲になったのかもしれない。
 こういう事件が起きるといかに日本が「安心・安全」な国か分かるが、本当にそうなのか。「安心・安全」という上辺の言葉に踊らされて内向きになっており、国民も政治家もその虚構の上に立ち、ジャーナリストが浅薄にあおっているのではないだろうか。政治家が安易にそれで票を得ようとしているのではないだろうか。国内で「安心・安全」でいられるのと同時に、国外では志を高く持ったK君のような若者があえて堂々と胸を張って「安心・安全」をものともせず仕事に挑んでくれているのではないだろうか。
 実際、日本は海外で活躍する日本人が必要で、その人たちは高い志で、勇気と正義感を持って働いてくれている。海外は危険と隣り合わせである。私が海外にいたころの日本は貧しく、1ドル360円で国は赤字で苦労していた。当時の在外公館は、邦人の安全確保をしようにもできない状況であったが、今の在外公館は情報集めにしても、邦人の安全確保にしてもできるはずだが、実際には行われていない。

乏しい予算
 アフリカの中国大使館数と日本の大使館数を比較するだけでも、いかに日本には予算がないか分かる。それは外務省の怠慢ではなく、多くの日本人が必要と認めないからである。
 少なくともジャーナリストや政治家は、それに気を向けるべきである。海外邦人に対する安全確保、未来の日本に対する投資としての教育、いずれも経済協力開発機構(OECD)加盟国中でも最低レベルに落ちている。例えば世界中どの国でも行われていない、狂牛病に対する牛の全頭検査に多大な予算が使われている。結果、他に必要なところへの予算が削られていることが分からない。しかし日本人は「安心・安全」を言わないと、政治家は票が集まらない。
 必要な予算は必要なところには回らず、身近の「安心・安全」に迎合したところに極端な大盤振る舞いの予算が回っている日本。志の高い人が「安心・安全」と言っていたのではアルジェリアでは働けない。それらの志の高い人、K君はそのような身近な「安心・安全」を叫ぶ日本人の犠牲になったにも等しい。
 一部の政治家は根拠もなく外国政府に頭を下げ、それによって日本人の犠牲者が出てくる可能性があることを分かっていない。国内の「安心・安全」のためにいかに多くの海外邦人の「安心・安全」が犠牲になっているか。K君の死を無駄にしないためにももう一度考えるべきだ。

日本の損失
 K君は将来、日揮だけでなく、日本と国民を導くリーダーになったはずである。日本にとって、とんでもない損失で、彼の命を奪った武装勢力にもアルジェリア政府にも激しい怒りを覚える。
 インターネットでは「日揮は社員の安全を確保できない限り、撤退すべき」という意見があったが、とんでもない。日揮は欧米企業と競争し、日本のためにも競争している。日揮一社で軍隊や警察は持てず、企業には限界がある。欧米企業は国が守っている。邦人の安全確保は国の義務であり、その中で日揮は犠牲者に関する情報の出し方を見ても、よく社員と社員の家族を守っていると思う。
 K君の冥福を祈るとともに、虚構の「安心・安全」に温々としていた日本人に代わり「ごめんなさい、すまなかった」。そして「いままで、ありがとう!」と言いたい。K君の命と引き換えにするのにはあまりにももったいない話であるが、少なくとも残されたわれわれは、日本の虚構の「安心・安全」をもう一度考え直すべきである。

 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130126/crm13012609510007-n1.htm


さて匿名で何か不都合があるか。それでこの文の値打ちが下がるか。投稿者の意図が伝わらないか。読者は今一度立ち止まって考えて頂きたい。実名にする理由が何処にあるのか。被害者の実名を、本人の了承が絶対に取れない状況下で、これを明かす必然性は全く無いことを改めて強調しておく。

               ★ ★ ★ ★ ★

産経からの依頼文であろうとなかろうと、この文を批判する気も揶揄するつもりもない。しかし、真面目な心情溢れるものであることを充分に理解した上でなお、自らの名を公開して投稿されたものである以上は、その問題点を公開の場で指摘することは許されるだろう。

先ず全体の内容の比率である。被害者に直接関わる部分は

『平成20年3月に修士を修了したK君。学生時代は韓国や南米からの留学生に囲まれるような環境で学んでいた。修了時、教員で出している「材料賞」を授与された優秀な学生だ。その上、私の研究室は修了生に品質保証書を出している。大学の基準で修了していても、私の基準で修了していなければ出さない。保証書は中心に私が保証を書き、周囲に研究室関係者が寄せ書きをする形だ。九州男児らしく勇猛果敢で正義感と積極的な行動力を持ち、好奇心旺盛なK君の寄せ書きには、いかに思いやりのある優しい人か、いかに思いやりのあるリーダーかが書かれていた。今回の事件でも部下をかばいながら犠牲になったのかもしれない』『K君は将来、日揮だけでなく、日本と国民を導くリーダーになったはずである』『K君の冥福を祈るとともに、虚構の「安心・安全」に温々としていた日本人に代わり「ごめんなさい、すまなかった」。そして「いままで、ありがとう!」と言いたい』

の三箇所だけである。残りの大半は「安心・安全」に関わる「投稿者の持論」である。

確かに今回の事件に直接関係する話であり、その意味での違和感は無い。しかしながら、繰り返し書いてきたように、この種の話は被害者家族や、周辺の状況が落ち着いた後に、「絶対に後ろに退かない決意の下」で公開し、実行すべきものであり、この時期に訴えることは、「世論喚起に効果的である」という極めて真っ当に見えながら、実は「マスコミ主導の効率論」に乗ったものであることが分かる。

図らずも、事件そのものが、政治家やジャーナリズムを批判する切っ掛けに貶められており、「悲しみを怒りに」という衝動が勝ちすぎている。勿論、遺族やその周囲の方がこうした文章を受け入れ、感謝されているかもしれない。我々外側の人間からは見えないものがあることは間違いない。

しかし、その一方で実名公開を拒否され、マスコミの卑劣な手口に憤りを表明されている方もいる。そうした方の無念を思えば、こうした手記の存在そのものが、「マスコミの非道」に手を貸し、信用保証として利用されていることに、もう少し神経を配ってもいいのではないか。

内容の大半を占める我が国の現状に対する分析、政治家、マスコミに対する批判なども、「マスコミを批判する意見もきちんと採り上げるマスコミ」という形で彼等に利用される結果に終わるだけである。こうして、マスコミに関わる者は、自身の主旨、本意に関わらず彼等に利用される。そのアリバイ作りに使われるのである。

「安心・安全」を唱えることが「魔法の呪文ではない」というのなら、被害者家族に対する実名報道がもたらす危険性についても考察すべきであろう。一般人の投稿に対して、事細かに指摘しても、ましてやこの特殊状況下でなされたことを採り上げても、誠に詮無い限りであるが、マスコミの掌の上で踊ることが、これ即ち日本の「安全・安心」を阻害していること理解して頂きたく思い、この件について書いた次第である。