夕刻の備忘録 様のブログより。
既存のマスコミの垂れ流す偏向・捏造報道を鵜呑みにして、「マスコミの奴隷」になっているのは、ネットを使えない高齢者ばかりではない。もちろんネットを使える者にも、若者にも存在する。ここでは、「ネットを使う」という言葉の内容が問題なのであって、商品検索や天気予報しか見ない人でも、「使っている」という意識は持っているからである。
裏情報も嘘情報も交えて、様々な情報の渦の中から、多士済々の人々が発信する意見の中から、既知の事実関係に照らして、何が正しく何が間違っているか、誰が正しく誰が間違っているか、を自分自身で考えない人にとっては、何を使っても「使っている」とは言えないはずなのであるが。
広く使われている「情報弱者」とは、こうした意味の言葉である。自宅でコンピュータを使い、スマートフォンを常に携帯し、内外の様々な情報に接する機会がありながら、なおマスコミの流す歪んだ情報によってしか最終判断が出来ない人が多い。そして、本来なら最も情報に敏感であり、正しい判断が出来なければならないはずの議員が、またこの「弱者」に分類されるのだから誠に始末が悪い。
これをチェックするには、実に簡単な方法がある。議員に「今の状況」、議員自身の置かれた状況、所属政党の「支持率」などを聞いてみれば、「その議員の情報源が何であるか」が直ちに分かる。大抵は、自党の本部から配られる情報が元であり、その本部の情報は、独自の調査組織を持っている場合でも、マスコミ誘導された支持者、支援者の現況であるから、当然の話として歪んでいるのである。
そして、議員本人、その家族、秘書、支援者幹部が、直接的にテレビ新聞などで接する「偏向報道」を必要以上に気にするので、結局のところ全体として、彼等の頭の中は「マスコミの誘導通り」に作り上げられてしまうのである。
これを糺さなければ何も始まらない。政治家がマスコミの誘導に沿って、意識をコントロールされているようでは話にもならない。これを糺し、悪循環を断ち切るためには直接行動しかない。「マスコミが敵視するネット」をマスコミ同様に敵視している人間。「ネットを使っている」ということに自惚れて、不確かな情報に踊らされ、結果的にマスコミの思う壺に嵌っている人間。彼等を目覚めさせ、社会の底から湧き上がってくる「真実の声」に耳を傾けさせるには、やはり直接行動が有効である。
★ ★ ★ ★ ★
「議員にアクセス」すべきである。
その方法は色々とある。
先ず、最も簡単な方法はメールである。
次に、電話である。演説会への参加である。
そして最後に、議員事務所への直談判である。
しかし、この何れにも「議員秘書」という存在がネックになる場合がある。メールは議員本人が直接読む可能性が高いが、それでも有力議員であればあるほど、事前に秘書により「分類」されている可能性がある。電話、直談判は「間違いなく秘書との遣り取り」になる。
ここで覚えておいて損のない事実がある。それは政治家は「人使いのプロ」であるということである。人が使えない政治家は、政治家の名に値しない。必要とあれば、親の仇、子の仇であっても、笑顔で握手して交渉するのが政治家である。これが出来ない「普通の人間」は決して政治家を志してはならない。国家国民のために私情を捨てられる人間だけが、国会議員の名に値する。
学者で、企業家で成功したから、限定的な対象を相手とする弁護士で成功したから、スポーツで世界を相手に戦ったからといって、それだけで政治家を志されては、国民は迷惑するばかりである。個人の利害を超えて、国家国民のために「出来ぬ我慢をして事に当たれる人間」のみが志すべき仕事なのだ。
従って、本人が真面目な政治家であるからといって、秘書も真面目とは限らない。本人が腰の低い政治家であるからといって、秘書まで低姿勢とは限らない。面従腹背は世の常である。人を使うプロである彼等は、余所で使い物にならなかった人を引き取って、秘書にしている場合もある。どうにもならなかった人を、上手く使って、一人前の社会人に仕上げていく人もいる。閣僚経験者や総理経験者など、有力議員であればあるほど、受け入れる秘書のバリエーションは多い。懐の深さが、部下のバリエーションに反映するのである。
よって、我々は「大いに失望させられることを覚悟」した上で、アクセスしなければならない。秘書の横柄さや、傲慢、不見識に腹を立てていては、議員本人にこちらの意図は届かない。未だに大半の秘書は「情報弱者側」に分類される人達である。故に、一国民が直接議員に接触しようとする「意図」を測りかねている。また、彼等は「議員を護る」という意識が過剰にあるので、不審者扱いされる場合も多い。「私の判断は議員の判断だと思ってくれ」と凄まれると、馬鹿馬鹿しくて、こちらは何も言うことがなくなる。
こうした頭の固い人達が多く秘書であるために、有益な助言をしようと接近する国民を不審者として排除し、それとは逆に、いかがわしさの極みのような連中を、支援者として中に入れてしまう。そうして議員の活動は先細りになり、やがて落選の憂き目に会うのである。
しかし、ここまで政治情勢が悪くなれば、もはや黙って引き下がっているわけにはいかない。様々な形で存在する「秘書の壁」を乗り越えて、議員にアクセスせねばならない。運があれば、物分かりのよい秘書に出会うこともあるだろう。真摯な支持者と不審者の区別が出来る「有能な秘書」が、真面目に話を聞いてくれることもあるだろう。
一番確実性が高く、こちらの心が折れない方法は「古いメール」、即ち「手紙」である。返信用の切手を同封してもよい、メールアドレスを記しておいてもよい。出来る限り相手側に「金銭的な負担が生じない形式」で、こちらの主張をぶつけてみる。そして、それに対する反応を見るのだ。ここで間違ってはならないのは、「人使いのプロ」である「政治家を使う」のは、我々有権者であるということである。その職責に尊敬の念を持ちながらも、「我々が選び、我々が使う」という意識を持たねばならない。それこそが有権者の政治的な責任なのである。
真っ当な政治家は、決してこのことを否定しない。麻生太郎は、街頭演説でしばしば「この時期に最も使えるのは俺じゃないか、麻生を使ってくれ!」と訴えていた。これは「使う・使われる」という主従関係を意図したものではない。国民と政治家が一体となって、国政にあたらなければ「国は滅びる」という事実を的確に表現した言葉なのである。即ち、全ての責任は、我々有権者にある。適切な人物を選び、それを見事に使う責任が我々にはあるということである。
裏情報も嘘情報も交えて、様々な情報の渦の中から、多士済々の人々が発信する意見の中から、既知の事実関係に照らして、何が正しく何が間違っているか、誰が正しく誰が間違っているか、を自分自身で考えない人にとっては、何を使っても「使っている」とは言えないはずなのであるが。
広く使われている「情報弱者」とは、こうした意味の言葉である。自宅でコンピュータを使い、スマートフォンを常に携帯し、内外の様々な情報に接する機会がありながら、なおマスコミの流す歪んだ情報によってしか最終判断が出来ない人が多い。そして、本来なら最も情報に敏感であり、正しい判断が出来なければならないはずの議員が、またこの「弱者」に分類されるのだから誠に始末が悪い。
これをチェックするには、実に簡単な方法がある。議員に「今の状況」、議員自身の置かれた状況、所属政党の「支持率」などを聞いてみれば、「その議員の情報源が何であるか」が直ちに分かる。大抵は、自党の本部から配られる情報が元であり、その本部の情報は、独自の調査組織を持っている場合でも、マスコミ誘導された支持者、支援者の現況であるから、当然の話として歪んでいるのである。
そして、議員本人、その家族、秘書、支援者幹部が、直接的にテレビ新聞などで接する「偏向報道」を必要以上に気にするので、結局のところ全体として、彼等の頭の中は「マスコミの誘導通り」に作り上げられてしまうのである。
これを糺さなければ何も始まらない。政治家がマスコミの誘導に沿って、意識をコントロールされているようでは話にもならない。これを糺し、悪循環を断ち切るためには直接行動しかない。「マスコミが敵視するネット」をマスコミ同様に敵視している人間。「ネットを使っている」ということに自惚れて、不確かな情報に踊らされ、結果的にマスコミの思う壺に嵌っている人間。彼等を目覚めさせ、社会の底から湧き上がってくる「真実の声」に耳を傾けさせるには、やはり直接行動が有効である。
★ ★ ★ ★ ★
「議員にアクセス」すべきである。
その方法は色々とある。
先ず、最も簡単な方法はメールである。
次に、電話である。演説会への参加である。
そして最後に、議員事務所への直談判である。
しかし、この何れにも「議員秘書」という存在がネックになる場合がある。メールは議員本人が直接読む可能性が高いが、それでも有力議員であればあるほど、事前に秘書により「分類」されている可能性がある。電話、直談判は「間違いなく秘書との遣り取り」になる。
ここで覚えておいて損のない事実がある。それは政治家は「人使いのプロ」であるということである。人が使えない政治家は、政治家の名に値しない。必要とあれば、親の仇、子の仇であっても、笑顔で握手して交渉するのが政治家である。これが出来ない「普通の人間」は決して政治家を志してはならない。国家国民のために私情を捨てられる人間だけが、国会議員の名に値する。
学者で、企業家で成功したから、限定的な対象を相手とする弁護士で成功したから、スポーツで世界を相手に戦ったからといって、それだけで政治家を志されては、国民は迷惑するばかりである。個人の利害を超えて、国家国民のために「出来ぬ我慢をして事に当たれる人間」のみが志すべき仕事なのだ。
従って、本人が真面目な政治家であるからといって、秘書も真面目とは限らない。本人が腰の低い政治家であるからといって、秘書まで低姿勢とは限らない。面従腹背は世の常である。人を使うプロである彼等は、余所で使い物にならなかった人を引き取って、秘書にしている場合もある。どうにもならなかった人を、上手く使って、一人前の社会人に仕上げていく人もいる。閣僚経験者や総理経験者など、有力議員であればあるほど、受け入れる秘書のバリエーションは多い。懐の深さが、部下のバリエーションに反映するのである。
よって、我々は「大いに失望させられることを覚悟」した上で、アクセスしなければならない。秘書の横柄さや、傲慢、不見識に腹を立てていては、議員本人にこちらの意図は届かない。未だに大半の秘書は「情報弱者側」に分類される人達である。故に、一国民が直接議員に接触しようとする「意図」を測りかねている。また、彼等は「議員を護る」という意識が過剰にあるので、不審者扱いされる場合も多い。「私の判断は議員の判断だと思ってくれ」と凄まれると、馬鹿馬鹿しくて、こちらは何も言うことがなくなる。
こうした頭の固い人達が多く秘書であるために、有益な助言をしようと接近する国民を不審者として排除し、それとは逆に、いかがわしさの極みのような連中を、支援者として中に入れてしまう。そうして議員の活動は先細りになり、やがて落選の憂き目に会うのである。
しかし、ここまで政治情勢が悪くなれば、もはや黙って引き下がっているわけにはいかない。様々な形で存在する「秘書の壁」を乗り越えて、議員にアクセスせねばならない。運があれば、物分かりのよい秘書に出会うこともあるだろう。真摯な支持者と不審者の区別が出来る「有能な秘書」が、真面目に話を聞いてくれることもあるだろう。
一番確実性が高く、こちらの心が折れない方法は「古いメール」、即ち「手紙」である。返信用の切手を同封してもよい、メールアドレスを記しておいてもよい。出来る限り相手側に「金銭的な負担が生じない形式」で、こちらの主張をぶつけてみる。そして、それに対する反応を見るのだ。ここで間違ってはならないのは、「人使いのプロ」である「政治家を使う」のは、我々有権者であるということである。その職責に尊敬の念を持ちながらも、「我々が選び、我々が使う」という意識を持たねばならない。それこそが有権者の政治的な責任なのである。
真っ当な政治家は、決してこのことを否定しない。麻生太郎は、街頭演説でしばしば「この時期に最も使えるのは俺じゃないか、麻生を使ってくれ!」と訴えていた。これは「使う・使われる」という主従関係を意図したものではない。国民と政治家が一体となって、国政にあたらなければ「国は滅びる」という事実を的確に表現した言葉なのである。即ち、全ての責任は、我々有権者にある。適切な人物を選び、それを見事に使う責任が我々にはあるということである。