ねずさんのひとりごと より。
今回お届けする記事は、久々の大作です。
400字詰め原稿用紙で40枚分、約1万6000字です。
内容は、日韓併合の真実と李承晩ラインについてです。
いま、竹島問題が争点となり日韓に亀裂が入っていますが、なぜそうなったのか、なぜそんなことが起こるようになったのか、その理由を探った記事でもあります。
それについては詳しいよとおっしゃられる方も、是非、ご一読してみてください。
これまで巷間語られてきた切り口ではなく、少し違った切り口で流れを見ています。
あまりこの件については詳しくないという方も、この日韓併合と李承晩ラインが、いまの竹島問題に直結している事柄なので、是非、ご一読願えればと思います。
きっと、目からウロコだと思います。
さて、本文です。
明治43(1910)年8月29日のことです。
いわゆる「日韓併合」です。
ちなみに併合直後の明治44(1911)年の韓国の年間総予算は3,565万円でした。
韓国内からの税収は1,330万円です。たった三分の一しかありません。
足らない分は、全額日本から補充しました。
なぜでしょう?
日露戦争が終わってまだ6年です。
日本だって予算に余裕があったわけではありません。
にもかかわらず、日本はなぜ、韓国に莫大な財政を投下したのでしょう。
そもそも日韓併合自体、いくら韓国に望まれたとはいっても、併合するしないを決めるのは、あくまで日本です。
何も金食い虫となる韓国を、無理に日本が併合する必要はありません。
どんな事情があったのでしょうか。
朝鮮半島は1392年にはじまる李氏朝鮮によって、ちょうど約500年、支那の属国(冊封国)でいました。
当時の朝鮮半島は、文明は遅れ、人口のほんの一握りの貴族(両班)が、庶民(白丁)をまるで人間扱いしないで搾取していた国です。
産業も育っていません。
鎖国していましたが、輸出品は、封主国である支那への女性献上くらいです。
国は貧しく、人々に教育もなく、山々は禿げ山、民家や街中にはトイレさえなく、首都ソウルでさえ堪え難い臭気が町をおおい、李氏王宮の正面入り口の南大門の真ん前でさえ、浮浪者がたむろしていた極貧国です。
あまりの極貧国であるがゆえ、欧米列強による植民地としての対象にすらなっていませんでした。
極端な言い方と思われるかもしれませんが「不衛生な猿山以下」と思われていたのが、当時の韓国だったのです。
そんなエリアを日本が併合する。
理由として、ロシアや支那を牽制する軍事的意図という人もいます。
けれど、それなら日韓併合の必要はまったくありません。
現に、日清、日露戦争において、日本は堂々と韓国の領土に兵を進めています。
それに抵抗できるだけの武力も資金も兵力も、気力さえも、韓国にはなかったのです。
ですから、仮に韓国に併合を望まれたとしても、日本は軍事的に領有するか、保護国、保護領、従属国にすれば足りたのです。
あるいは植民地でも良い。
何ら投資など必要はなかったのです。
それは日本人のやさしさからだ、という人もいます。
たしかに日本人はやさしいけれど、無駄なことをするだけの余裕は、日本にはありません。
先ほども述べた通りで、日本はまだこの時期、日露戦争の戦費の償還をしていたのです。
財政に余裕はない。
にも関わらず、日本は韓国を「併合」し、さらに巨額の財政投下までしているわけです。
なぜでしょうか。
当時日本は、明治の開国後、またたく間に国力をつけた日本は、日清、日露の戦争にも勝利し、明治35(1902)年には、世界最強の海軍国である大英帝国と対等な同盟関係まで締結する国家となっていたというのは、みなさまご存知の通りです。
有色人種国家は、欧米列強の前にひれ伏し、植民地支配を受けるしかないという世界の常識の中で、唯一日本は有色人種国家でありながら、名実ともに世界の一等国仲間入りを果たしていました。
目の前でそうした状況を見せつけられたごく一部ながら韓国の知識人を自認するモノたちが、そんな日本に驚愕したであろうことは、簡単に察しがつくことです。
だからこそ、李氏朝鮮第26代国王の高宗は、支那の属国である李氏朝鮮国王から、明治30(1897)年に国号を「大韓帝国」と改めて独立し、自ら初代皇帝に即位して、朝鮮の独立と開国に踏み切ったのです。
そして韓国は、明治42(1909)年10月には、あくまで日韓併合に「反対」する伊藤博文を暗殺しました。
これは安重根の単独犯にしては、いささか荷が重い話です。
韓国が、国をあげて、「日本の総理を暗殺してまで」、日本との併合を望んでいた、ということです。
現に、伊藤博文暗殺の一ヶ月後、喪が明けるのを見計らって、韓国国内に当時あった最大与党の一進会が、「韓日合邦を要求する声明書」を出しています。
この声明は、「日本と韓国が対等な立場で合併することで、新たにひとつの大帝国を作るべきである」という内容です。
しかしこの声明は、世界の嘲笑をかっています。
なぜなら当時の日本と韓国は、国力に雲泥の差があったからです。
日本と対等に合邦するということは、日本と同盟関係にある英国とも「対等な関係」を形成することになります。
文化もない、教育もない、産業もない極貧の有色人種国が、いきなり欧米諸国と「対等」な合邦を申し出る?
失笑をかうのは、あたりまえのことです。
しかしこのことがきっかけとなって、列強諸国から、「日本に韓国の面倒をみさせるべし」という声がではじめます。
ものの本によっては「韓国から合邦を望まれた日本が、諸外国にお伺いをたて、諸国の了解のもとに日韓併合を行った」というような記述をしているものがありますが、逆です。
どういうことかというと、これには少しばかり当時の世界についての説明が必要かもしれません。
現代の価値観と、当時の価値観が大きく異なるからです。
当時の世界は、欧米の白人国家が有色人種を支配するのが「常識」とされいた時代です。
国力のある国家が、そうでない国家を支配する。
それがあたりまえだったのです。
理由は、ひとことでいえば、宗教上の理由といえるかもしれません。
以前にも何回か述べたことですが、もういちど復習すると、
白人社会の伝統的価値観(宗教観)においては、この世は「神」と「人」と「獣」によって構成されています。
「神」は唯一絶対の存在であり、「人」は神の子です。
神の子である「人」は、神との間に交されたルールを守らなければなりません。
ルールを守るから「人」なのです。
ルールを知らない、あるいはルールを守れないモノは「人」ではない。
「人」でないモノは「獣」です。
たとえ人の姿をしているかどうかは関係ありません。「獣」は「獣」です。
バンパイヤ(吸血鬼)やリカント(狼男)は、人の形をしています。
けれど人間の勇者によって片端から殺されます。
バンパイヤやリカントは、いくら殺しても罪にはなりません。
なぜなら人の姿をしていても「獣」だからです。
「人」は、牛や豚を殺して食べます。
それは牛や豚が「獣」だから許されることです。
「人」を殺せば殺人罪ですが、「獣」を殺した「殺獣罪」というのは、世界中、どこを探してもありません。
そして西欧的ルールを守れないモノは、人の姿をしていても「獣」です。
ですから異教徒である有色人種は「獣」です。
「獣」は、「人」に危害を及ぼすならいくら殺しても構わない。
危害を加えない獣は、蜜蜂と同じで、飼いならして「家畜」にします。
そして使役して果実を作らせる。
できあがった果実は、「人」のものです。
そうした考えが、国家レベルになったものが「植民地支配」です。
つまり「植民地」は、神の子である白人種(人)が、人でない「獣」(有色獣)を、国家規模で飼いならして使役する社会制度です。
そして西欧では、古代フェキニアの時代から、これが常識です。
植民地でなく、保護国、保護領、従属国にするという選択もあります。
これも家畜を保護して従属させ、使役するという延長線上にある考え方です。
私達現代の日本人は、有色人種であっても、自分たちは「人」であると信じて疑いません。
ですからこのような説明をしてもわかりにくいかもしれません。
けれどそんな私達も、魚を釣ります。鰻(ウナギ)を養殖します。
そして魚を釣って殺して食べても罪になるとは誰も考えません。
ウナギの人権など、おそらく誰も考えたことなどないと思います。
要するに人でないということは、魚やウナギと同じ、ということです。
こうした有色人種を「獣」として使役するという考え方は、ヨーロッパにおいては古代からの、ごく一般的な思想です。
15世紀にはじまる大航海時代において、人が遠くアフリカや南米に出かけて行く。
その国の原住民を殺して金銀財宝を持ち帰る。
それが罪にならなかったのは、その国の原住民が「人」ではなく「獣」とみなされたからです。
そうした考え方が、まさに「常識」とされていた時代に、有色人種でありながら、唯一「人」として認められたのが日本です。
「人」と「獣」の違いは、ひとことでいえば、人としてのルールを守れるか否かです。
日本は、古来の伝統的武士道に基づく道徳観にさらに磨きをかけ、これを国民的共通観念とし、さらに教育によって西洋人以上に約束を守り、勇敢で、高潔で、人としての尊厳を保つ民族、国家、人種として、日本社会を構築していったのです。
そしてその努力があったからこそ、日本民族は、ルールを守れ、勇敢で高潔で勤勉な民族として、西欧社会に受け入れられました。
「獣」としかみなされない有色人種が、白人種の中でも最強とされた英国と対等な同盟関係を結ぶには、日本人の国をあげた努力が根底にあったのです。
ところが、お隣の韓国は、自らを何も律することなしに、また何の努力もすることなしに、日本に対して「対等な合邦」と言い出したわけです。
これはまさに、人として国家としての「ルール」をまるでわかっていない、つまり自ら「獣」宣言をしたようなものにしかなりません。ルールがわからない、理解できないということは「獣」である証だからです。
日本は困りきったし、西欧諸国は涙を流して笑い転げます。
あたりまえのことです。
結果、欧米諸国は、日本に「韓国の面倒をみてやれよ」といい出します。
「野良犬(もしくは猿?)が、君のとこに妙になついてしまったのだから、まあ、面倒くらいみてやりなさいな」というわけです。
一方日本は、世界でただ一国「有色人種も人である」と必死に主張していた国です。
その有色人種のお隣の国が「オイラ、獣です」と世界に向けて宣伝したわけです。
有色人種が「獣」なら、日本人も「獣」になってしまう。
そうなれば、明治の開国以来の国をあげての努力が、ぜんぶ水の泡です。
米英露伊仏独は、それぞれに日本に韓国支配を迫りました。
日本は欧米との外交上、韓国の面倒を見ざるをえない方向に追い込まれてしまったのです。
やむなく日本は、韓国の面倒をみることにしました。
本来なら、植民地か、保護国、保護領、従属国にするだけでも足りるのです。
そもそも当時の国際的常識では、韓国は「人の国」ではないのです。「猿の国」です。
けれど、日本が「有色人種は人である」と主張するなら、朝鮮半島に生息する猿も同じ「人」となります。
ならば日本は、韓国を対等に遇しなければなりません。
そして韓国の中味が「獣」でしかないなら、なんとか教育して「人」に仕立て上げなければなりません。
こうしてできあがったのが、明治43(1910)年8月の「日韓併合」であったわけです。
韓国を併合した日本は、韓国内に古くからある不条理な刑罰や牢獄制度を廃止させ、韓国内に八つあった言語を統一し、半島内に五千二百校に及ぶ小学校を作り、二百三十九万人を就学させ、道路をつくり、鉄道を敷設し、上下水道を整備し、路上での大便を禁止し、病院をつくり、電気を引き、ビルを建て、道路を拡張整備して、韓国の近代化をいっきに押し進めました。
それらすべては、日本が、韓国民を世界に認められる立派な「人」に育てようとした努力の数々だったわけです。
ところが韓国人は、こうした世界の趨勢をまるで理解できない。
とりわけかつての李氏朝鮮時代の支配層であった両班で、両班であることによる特権意識の強かった者は、日本に支配されることを快しとしませんでした。
対等な合邦であること自体が我慢できなかったのです。
むしろ、我が朝鮮民族こそ上位にある、などと考えていました。
みなさん、自分でいくら「私は偉い人」だと思っていたとしても、偉いか偉くないかは、周りの人々が決めることです。
そして家柄がどうあれ、周囲の尊敬を集め、対等なおつきあいを望むなら、しっかりと人間社会のルールを守る立派な大人にならなければ、誰も相手になどしてくれません。
ましてや、猿が背広を着て「私は偉い」などと尊大ぶったところで、なんのハッタリにもなりません。
周囲にいるのは、欧米列強という圧倒的な武力を持ち、世界をリードしている先進諸国なのです。
ちょっと考えれば誰だってわかりそうな、こうした簡単な理屈が、目が曇った者にはわからない。
産まれてこの方、風呂に入ったこともなく、糞尿垂れ流しで着替えの習慣もなく、女性には名前すら与えずに両方の乳房を露出させるという悪趣味の未開の野蛮な猿人が、いきなりパリの一流ホテルに現れて、我々を西欧貴族と同一に扱えと主張したところで、警察に逮捕されるのがオチです。あたりますぎるほどあたりまえの話です。
西欧貴族と対等にお付き合いしたいなら、それなりに我が身を律しなければならない。
そんなあたりまえのことが、まったく理解できなかったひとりが、後に韓国の初代大統領となる李承晩です。
李承晩の家は、没落両班の家系です。
たまたま近所に、米国人のプロテスタント系教会ができ、少年時代の彼は、そこで米国人宣教師から、英語を学びました。
その縁で、大韓帝国皇帝の高宗王が韓国近代化のための学徒として明治三十七(1907)年、国費で学生を渡米させることになったとき、李承晩は、そのなかのひとりに選ばれています。
きっと、優秀な若者だったのでしょう。
その優秀な若者は、東洋からきた栄えある学徒として、渡米したその日、米国大統領のセオドア・ルーズベルトと謁見の栄誉を得ました。
これまた李承晩にしてみれば、自尊心をくすぐられる誇り高い出来事だったことでしょう。
ルーズベルトの前に出た李承晩は、その場で米大統領にあてた「韓国への援助を求める請願書」を大統領に渡そうとします。
韓国の国書ではありません。
あくまで李承晩個人の「請願書」です。
ルーズベルトはにっこり笑うと、李承晩にやさしくこう言いました。
「君、こういうものは、公式のルートをちゃんと通すものですよ」
ルーズベルトにしてみれば、そんな人として、国家として、組織として、最低限のルールさえわきまえない東洋の尊大な留学生は、さぞかし滑稽な「獣」に見えたにちがいありません。
李承晩は「頭の良い」学生であったのだろうと思います。
この後米国に滞在した李承晩は、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学に学び、明治43(1910)年には、プリンストン大学で政治学博士号を取って卒業しています。
ただ最近、とみに思うのですが、学校の成績がどんなによくても、人としてのルールやたいせつなこと、あるいはアイデンティティを身に付けない者は、結局は人の道を踏み外すように思います。
いい例が、かつてのオウムの幹部たちであり、近いところでは鳩ポッポも同様です。
頭はいい。けれど、肝心なところで、道を誤る。
昔の人はうまいことを言ったものです。
「頭の毛が三本足りない」
さて、ブリンストン大学を卒業した李承晩は、意気揚々と韓国に帰国します。
ところが祖国韓国で李承晩を待ち受けたのは、「日韓併合」という現実でした。
曲がったナショナリズム(両班最高!)に染まった李承晩にとって、この現実は受け入れがたいものだったのでしょう。
彼は翌年、寺内正毅朝鮮総督の暗殺計画に加担し、露見して投獄されています。
国費で留学の栄誉に服した韓国の英雄は、一夜にしてただの犯罪者となってしまったのです。
翌年出獄した李承晩は、米国に亡命します。そしてハワイのホノルルに居を構えて、そこを拠点に李氏朝鮮時代を賛美するファンタジーを細々と書き続け、朝鮮独立運動家としての行動を続けています。
一方、その韓国では、大正8(1919)年3月に、初代大韓帝国皇帝の高宗が逝去しました。
この葬儀を前に、韓国にあった天道教という宗教団体が、ソウル市内の中心部のパゴダ公園(現タプコル公園)で朝鮮の独立宣言を読み上げることを計画しました。
本来はわずか33人の小規模な集会でしかなかったのですが、そこに数千人の学生が集まり、口々に韓国独立を唱えて、デモ行進をはじめたのです。
このデモは、その後五月にかけて合計1542回も行われました。
参加延べ人数は205万人です。
もっというとこのデモは、昨今日本国内で行われているような大人しいものではありません。
むしろ暴徒です。
暴徒団は、警察署や役場を襲撃し、生徒達が授業を受けている小学校にまで押し寄せて、投石、放火、破壊、暴行、強姦、虐殺を繰り返したのです。
いいですか?小学校を襲い暴行、強姦をしたのです。
それが何を意味するかわかりますか?
死傷者は2万人を超えています。ひどいものです。これが「三・一暴動」と呼ばれるものです。
この暴動は、やがて鎮圧され、暴動の原因をつくった天道教の幹部達も逮捕されました。
日本は、特別な弾圧のようなことはしていないのですが、この後、日本が大東亜戦争終結によって韓国を撤収するまで、韓国内では、このような反日、反政府デモは起きていません。
日本の統治によって社会が安定し、経済が目に見えて発展して行く姿を、韓国民達が目の当たりにしたからです。
そして何より、新たに覚えた糞尿にまみれない清潔な暮らしに、多くの民衆(猿)がしっかりと馴染んで行ったのです。
日本は、韓国を日本の領土、日本の一部としました。
当時の韓国は、日本の九州、四国、北海道と同様、同じひとつの日本であったのです。
そして36年間の日本の統治によって、朝鮮半島は人口が2倍となり、24歳だった平均寿命は、60歳にまで伸び、家畜として国母(皇太子の生母)ですら名を名乗ることが許されなかった女性にも、全員名前が付けられて人間としての扱いをうけることができるようなり、近代国家としての体裁をひとつひとつ整えて行ったのです。
そうした韓国に再び変化が訪れたのが、終戦です。
終戦の年の10月に韓国に帰国した李承晩は、韓国の初代大統領に就任しました。
大統領というと、わたしたち日本人は、米国大統領のような法的な存在を想像しますが、李承晩の目指した韓国大統領は違います。
大統領とは名ばかりで、その実体は李氏朝鮮王朝の皇帝です。
すなわち猿山のボス猿です。
そして李承晩は、大統領に就任するとすぐに、韓国内で言論の取締を行っています。
すなわち、市内で「日本統治時代のほうがよかった」「いまの政治はおかしい」と発言しただけで、全員その場で逮捕、投獄し、厳しい拷問を加えた挙げ句、殺害してしまったのです。
こうして逮捕された政治犯は、李承晩が大統領に就任した最初の二年間だけで、日本統治36年間の政治犯の総数をはるかに上回るものとなりました。
そして李承晩は、身勝手な我がままで金日成を追い込み、朝鮮戦争を引き起こすと、自分だけはサッサと前線から逃亡し、その逃亡途中で、武器さえも持たない韓国の一般市民を、北朝鮮のスパイだと一方的に決めつけ、韓国民20万人以上を殺害しています。
みなさん、朝鮮戦争による死傷者の数はご存知でしょうか。
韓国軍将兵が20万人です。米軍が14万、その他連合国軍が22万、北朝鮮軍が29万、中共軍が45万です。
加えて、民間人死傷者数は、韓国側133万人、北朝鮮側が250万人です。
合計で、なんと500万人を超える死傷者を出した戦いが朝鮮戦争だったのです。
ちなみにこの戦争で米軍が投下した爆弾の総重量は約60万トンです。
これは大東亜戦争で米軍が日本に投下した爆弾の総重量の4倍です。
朝鮮戦争が、いかに泥沼的殺戮戦だったのかがわかろうというものです。
そして朝鮮戦争が行われた期間は、昭和25(1950)年6月25日から、昭和28(1953)年7月27日です。
これをみたら、ピンとくる方もおいでになるかもしれません。
そうです。
日本がサンフランシスコ講和条約を締結したのが昭和26年、施行されたのが昭和27年4月です。
まさに、朝鮮戦争の最中の出来事だったのです。
ここまでくると、なぜ米国がサンフランシスコ講和を急いだのか、理由が見えてきます。
米軍を筆頭とする連合国は、あの悲惨な朝鮮戦争に、世界最強をもって鳴る日本軍を再生させ、参戦させようと急いだのです。
ところがときの総理の吉田茂首相は、そうした米国等の思惑を見抜き、占領統治憲法に記載された事項を盾に、現を左右にして日本の再軍備と参戦を拒みました。
まだ戦後の傷跡の癒えない日本が、泥沼化した朝鮮戦争に加担させられることを防いだのです。
そして米国は、翌年、当事者である韓国李承晩大統領の「あくまで戦う」という意向を無視して、韓国の頭越しに北朝鮮と休戦協定を締結しています。
米国が日本の参戦をあきらめたからです。
サンフランシスコ講和条約発効によって、占領統治憲法はその役割を失い、大日本帝国憲法が復活するというのは、私の持論です。
理論的には、そうなります。
なぜなら、GHQによる占領統治期間というのは、戦争状態を意味し、サンフランシスコ講和条約でその戦争状態が終わったからです。
この間、戦争をしていたのは占領統治領日本ではありません。大日本帝国です。
従って講和条約の当事者は大日本帝国であり、講和条約発効の時点で大日本帝国が復活していると考えるのが妥当な考え(理屈)です。
ただし、同時に私は、当時吉田茂首相が、あくまで占領統治憲法(現:日本国憲法)を盾にとり、日本の再軍備による朝鮮戦争参戦を拒んだ、その決断を正しいと思うし、心から感謝したいと思っています。
なぜなら、もし日本が朝鮮戦争に参戦していれば、戦いは勝てたかもしれないが、間違いなく多くの日本人の若者の命が奪われたであろうことは、間違いないからです。
その若者たちとは、昭和20年から昭和30年くらいまでの間に、結婚適齢期にあった若者達です。
つまり、いまの団塊の世代が生まれた前後の時代に、結婚適齢期にあった若者達です。
つまり、その時代の日本人の若者の命が多く奪われたとなれば、いまの団塊の世代とそれに続く何年かの世代の人たちの多く、この世に生まれていないし、私もこの世に産まれていない。
その意味で、私達は吉田茂首相、重光葵外相に、やはりまずは感謝しなければならないと思う。
なぜなら、私達がいま生きているのは、この二人が日本の朝鮮戦争参戦をあくまで拒んでくれたからです。
もっとも、それから60年も経過した今日、朝鮮戦争時に意図的に曖昧にした憲法を、もう見直すべきというのも、事実も、これまた当然の事実です。
さて、朝鮮戦争の苦戦によって、日本に再軍備させることを急いだ米国に対し、日本の参戦をあくまで拒もうとする李承晩が行ったことがあります。
それが、日本の竹島に対する一方的な軍事占領と、海洋領海線を一方的に拡大した李承晩ラインです。
竹島の占領は、昭和26(1951)年7月のことです
実はこの2年前に、李承晩は対馬の領有宣言を行っています。
しかし、これは日米両国はおろか、連合国諸国から完全に無視されています。
「猿が何かわけのわからんことを言い出した」くらいの評価だったのです。
ところが、竹島に関しては、李承晩は強引でした。
時は、ちょうど米国がサンフランシスコ講和条約の草案を起草していた当時のことです。
李承晩の読みはおよそ次のようなものでした。
1 日本が参戦する
↓
2 日米という最強の取り合わせで北朝鮮と戦う
↓
3 当然日米連合が勝つ
↓
4 この場合、韓国李承晩政権と北朝鮮金日成政権はどちらもこの世から消滅する。
↓
5 朝鮮半島は再び日本の領土となる
政権の危機感を募らせた李承晩は、米国政府に対して要望書を提出しました。
内容は、
(一)日本の在朝鮮半島資産の韓国政府への移管
(二)竹島、波浪島を韓国領とする要求
です。
(一)は、すでにそうなっているものです。
何の問題もありません。むしろ「いまさら何?」という程度の問題です。
ところが(二)は、すでにGHQが日本統治時に決定した領海線であるマッカーサー・ラインを否定するものです。
これは米国にしてみれば、迷惑な要望でしかありません。
ただでさえ李承晩の我がままに乗ったばかりに、米国は米国の青年たちの命を、朝鮮半島で損耗している最中なのです。
そしてなんとか日本を参戦に導こうと水面下でコツコツと努力している最中に、この李承晩の提案は、邪魔なものでしかありません。
激怒した米国は、翌月には在朝鮮半島の日本資産の移管は認めるが、それ以外の要求は「一切認めない」という、外交文書としては異例の厳しい内容の書簡を李承晩に送りつけます。
これが「ラスク書簡」です。
そして「ラスク書簡」の一ヶ月後の昭和26(1951)年9月8日、日本との間にサンフランシスコ講和条約が締結され、翌年4月28日、この条約が発効しています。
ところが、です。
要望書を袖にされた李承晩は、おもしろくありません。
というより、地位を失うことが怖かったのかもしれません。
李承晩は、サンフランシスコ条約が発効となる三ヶ月前の昭和27年1月8日に、突然、日本との国境を一方的に定めた「李承晩ライン」を取り決めたのです。
これに一番驚いたのは米国です。
朝鮮戦争の最中なのです。
なんとして強兵で知られる日本軍を参戦させようと水面下で努力していたのに、日本に協力をもらうべき韓国が、日本にいきなり喧嘩を売ったのです。
米国にしてみれば、これではすべてが台無しです。
サンフランシスコ講和条約自体の意味がなくなる。
どう対策しようか迷う米国に対し、李承晩は、カウンターパンチが効いたと思ったのでしょうか。
さらに追い打ちをかけます。
同月27日に、「李承晩宣言韓国政府声明」を発表したのです。
この声明で李承晩は、李承晩ラインは「国際法において確立された」と一方的に宣言します。
そんなことをすれば、日本は怒るにきまっています。
そして日本が怒れば、米国の朝鮮戦争に日本を参戦させようという目論見は、総崩れになる。
米国は、ここへきてようやく事態を重く考え、李承晩に、
「サンフランシスコ講和条約によって竹島は日本領である」
「李承晩の一方的な宣言は、国際法上違法である」と韓国政府に伝達しています。
そしてこれに対する李承晩の回答が、韓国官憲による日本人漁船の拿捕と、竹島の軍事占領だったのです。
実にとんでもない話です。
李承晩ラインは、朴大統領によって廃止されるまでの13年間継続しました。
その間に拿捕された日本の漁船は、328隻にのぼります。
そのなかには、韓国が、韓国漁船を装った船で日本漁船に近づき、まるで騙し討ちのように銃撃して拿捕したケースもみられます。実に卑怯極まりない方法です。
そして日本人3,939人が韓国に抑留され、44人の日本人船員が殺害されました。
写真にあるのは、ようやく解放されて帰国した日本人漁民です。
ガリガリに痩せ細った体、腫れ上がった顔、全身が打撲と裂傷で紫色に変色しています。
あまりにも酷い仕打ちです。
李承晩が行った非道はそれだけではありません。
一方的に領海線を敷いた彼は、一緒に朝鮮戦争を戦ってくれている米軍にも内緒で、勝手に竹島に兵を入れ、これを軍事占領してしまたのです。
あきれ果てた行状です。
もっとも、李承晩のこうした暴挙を、日本政府は上手に活用させてもらっています。
すなわち韓国の日本に対する暴挙と、日本に与えられた日本は軍事力を持たないという占領憲法を盾に、朝鮮戦争への参戦を拒んだのです。
血を流して韓国のために戦ってくれている米国に対し、あまりにもあきれ果てた韓国の行状は、結果として米国内の朝鮮半島への執着を捨てさせました。
このことが、日本の朝鮮戦争参戦拒否を上手に促進してくれたという側面は否定できません。
まだ大東亜戦争の傷跡の癒えない日本は、国際戦争に駆り出されるより、日本国内の復興を優先させることに成功したのです。
また、韓国に拉致された被害者の漁船員たちについては、米軍に依頼して、都度、日本への返還を要求し、船員達をもらいうけています。
これは明らかな日本外交の勝利といえる反面、サンフランシスコ講和の時点で本来破棄すべき占領統治憲法(現・日本国憲法)を温存するというマイナス面を残して現在に至っています。
他方、李承晩の暴挙によって、せっかくの講和後も日本の参戦を棒に振った米国は、あくまで北朝鮮との戦いの継続を望む李承晩を無視して、彼の頭越しに北朝鮮との休戦協定を結びました。
これが昭和二十八年七月二十七日の出来事で、以来、朝鮮半島は北緯三八度線を境に北と南に別れています。
「頭越しに」というのは、たいへん重要なファクターです。
要するに、米国は、この時点でもはや韓国を共に戦うパートナーとみなしていなかった、ということだからです。
一方、この休戦を不服とした李承晩は、韓国内に収容した敵軍の捕虜を国内で何の脈絡もなく全員釈放して放逐するという暴挙に出ています。
放逐された捕虜たちは韓国各地で事件を起こし、多くの韓国民に惨事を招きました。
米国政府は、この李承晩の勝手な行動に猛抗議をしています。
が、あとの祭りでした。
こうして大統領というよりも、まさに暴君としての専制政治を敷いた李承晩でしたが、彼の専横政治がようやく倒れたのは、昭和三十五(1960)年になってからのことです。
韓国国内で民衆による李承晩打倒デモが起こったのです。
韓国全土に広がったこのデモは、一八六人もの死者を出し、ついに駐韓米国大使のマカナギーが李承晩を訪れて、大統領を辞任しなければ、米国は対韓経済援助を中止するとまで通告します。
みなさん、これが何を意味するかわかりますか?
これは米国による明らかな、たいへん露骨な「内政干渉」です。
この時点で米国は、韓国をすでに「国家」としてみなしていなかった、ということです。
国家ではなく、未開の蛮族であれば、その蛮族の自治は、基本的に未開の蛮族に任せるのが原則ですが、状況に応じては国家は蛮族の平和のために、必要な干渉をしなければならない。
それが世界の常識です。
ですから、米国のこの通告は、内政干渉ではなく、国家が蛮族に行う当然の処置でもあったのです。
すこし補足すると、ラスク書簡、その後の通告、そして朝鮮戦争の休戦。
朝鮮戦争は、38度線で「休戦」していますが、これは、
「韓国が北朝鮮と休戦」したものではありません。
「米国が北朝鮮と休戦」したのです。
韓国があくまで戦争継続を主張する中で、米国が「勝手に」休戦協定を締結してしまったのです。
ですから、朝鮮戦争の「休戦」は、韓国と北朝鮮の「休戦」ではなく、「米国と北朝鮮」の休戦であり、韓国はいまだ「戦争中」です。
にもかかわらず、米国は韓国に戦闘行為の継続の停止を要求しています。
そして後年、李承晩の大統領継続も、拒否しています。
つまり「内政干渉」です。
こんなことが公然と行われたということは、すでにこの時点で米国は韓国を「人の国家」とみなしていなかった、ということです。
米国に見放された李承晩は「行政責任者の地位は去り、元首の地位だけにとどまる」と発言しました。
これがまた韓国民衆の怒りを買います。
民衆が求めたのは、李承晩の政権の追放だったからです。
パゴダ公園にあった李承晩の銅像は、暴徒と化した民衆によって引き倒されました。
韓国国会は全会一致で、李承晩の大統領即時辞任を要求しました。
ここにいたって、李承晩体制は、ようやく終止符がうたれます。
そして李承晩は養子にとった息子まで自殺するなかで、ひとり米国に逃亡し、九十二歳までしぶとく生き延びています。
李承晩自身は失脚しますが、残念ながら韓国の法律に組み込まれた「李承晩ライン」は、その後も維持されました。
ようやくこれが廃止されたのは、昭和三十一(1956)年に軍事クーデターを起こして、韓国内に新政権の朴正煕大統領が誕生してからのことです。
日本の陸軍士官学校を卒業し、親日家であった朴正煕大統領は、昭和四十(1965)年六月に日本との間で「日韓基本条約」を締結し、李承晩ラインを廃止しました。そして日本の経済援助を得て、韓国内の産業振興を図り、結果韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済の大発展を遂げたのです。
ただ、この日韓基本条約において李承晩ラインは廃止となったものの、竹島については、当時の日韓両国において「争いの余地のない日本の領土」という認識のもとで、特段の取り決めがなされませんでした。
このため、いまだに竹島が領有をめぐっての日韓の火種となって残っています。
さて、私達日本人は大統領という名前を聞くと、米大統領のような法治主義の代表者というイメージを持ちます。
けれど韓国における大統領は、未開の野蛮族の王様です。
絶対君主であり、君主は民衆の幸福より君主の身の安全を優先します。
李承晩はまさにそのために反日侮日工作を行ったし、昨今の李明博もそのひとりです。
そしてその韓国の反日侮日の原点となっているのが、韓国の初代大統領李承晩の蛮行にあります。
ひとつ申上げたいことがあります。李承晩は(いまの韓国もそうですが)、李氏朝鮮時代をまるである種の「理想国家」として描いている点です。
その「東洋の理想国家李氏朝鮮」を打ち壊し、破壊したのが日本だというわけです。
けれど、この路線を敷いた李承晩は、その李氏朝鮮王朝について、何ら畏敬の念も尊敬の念も敬愛の情も持っていなかったことは、以下の事実が証明しています。
どういうことかというと、李承晩は、李氏朝鮮王朝の正当な血を引く李氏朝鮮の皇族の韓国入国を拒否しているのです。
日本は戦前、朝鮮を統治するにあたって、李氏朝鮮王朝の最後の皇太子である李垠殿下を、日本の皇族と同じ待遇として日本に招いています。
その李垠殿下は日本の陸軍中将として軍事参議官まで勤められました。
李承晩は、その李垠殿下を、事実上の国外追放状態にしたままにしました。結局李垠殿下は、日本で生涯を質素な公営住宅で過ごされ、亡くなられたときも公営住宅内の集会所でひっそりとした葬儀がとりおこなわれています。
このとき韓国政府からの出席者は皆無です。
皆無、皆無です。
日本からは三笠宮崇仁親王殿下がご出席賜われました。
その様子に参列した全員が涙を流しています。
要するに李承晩には、李氏朝鮮時代への憧憬などまるでなかったわけです。
あったのはただの妄想であり、彼はその妄想を自己の権力の拡大に「利用」しただけ、ということです。
ところが、多くの韓国民が、そのくだらない妄想からいまだに抜け出せないでいる。
「建国の妄想どこまでも」というわけです。
しかし、その妄想のおかげで何が起こったか。
500万人の命が失われ、いまもまだ朝鮮戦争は続いているのです。
さて、最近、私は思うことがあります。
それは、結局のところ、かつての白人社会における「ルールを守れないモノは『人』ではなく『獣』である」という考えは、正しい考えだったのではないか、ということです。
李承晩の非道、金日成の非道、中共政府の非道、そして昨今の李明博韓国大統領の陛下に対する侮辱発言、さらにはロンドン五輪における「スポーツでさえもルールを守れない民族」。。。
そうしたものを目の当たりにするにつけ、かつて日本が「獣」を「人」とするために、財をかたむけてまで懸命に努力したことが、結果として何の役にもたっていない。
いないどころか、むしろいまだに彼ら「獣人」たちは、世界に害毒をまき散らし続けています。
日本では何の報道もされていませんが、すでに国際社会においても、「獣はやはり獣でしかない」という解釈が主流になりつつあるといわれています。
日本も、戦前から続く「人は人である」という考えを、そろそろ改めなければいけないのではないかと思うのです。
韓国人が、自分たちは「獣」ではない、と思うなら、自ら努力してルールを守る「人」になれ。
できないのなら、日本はこれ以上、彼らと国交を交える必要はないし、国内にいる「獣」に生活保護金など与える必要もない。
日本人は、しっかりと歴史の真実を見据え、戦後にねじ曲げられた歴史から、真実の歴史を取り戻さなければなりません。
同様に心ある韓国の人々も、一日もはやく、歴史の真実から目を覚まさしていただきたいと思います。
ガリガリに痩せ細った体、腫れ上がった顔、全身が打撲と裂傷で紫色に変色しています。
あまりにも酷い仕打ちです。
李承晩が行った非道はそれだけではありません。
一方的に領海線を敷いた彼は、一緒に朝鮮戦争を戦ってくれている米軍にも内緒で、勝手に竹島に兵を入れ、これを軍事占領してしまたのです。
あきれ果てた行状です。
もっとも、李承晩のこうした暴挙を、日本政府は上手に活用させてもらっています。
すなわち韓国の日本に対する暴挙と、日本に与えられた日本は軍事力を持たないという占領憲法を盾に、朝鮮戦争への参戦を拒んだのです。
血を流して韓国のために戦ってくれている米国に対し、あまりにもあきれ果てた韓国の行状は、結果として米国内の朝鮮半島への執着を捨てさせました。
このことが、日本の朝鮮戦争参戦拒否を上手に促進してくれたという側面は否定できません。
まだ大東亜戦争の傷跡の癒えない日本は、国際戦争に駆り出されるより、日本国内の復興を優先させることに成功したのです。
また、韓国に拉致された被害者の漁船員たちについては、米軍に依頼して、都度、日本への返還を要求し、船員達をもらいうけています。
これは明らかな日本外交の勝利といえる反面、サンフランシスコ講和の時点で本来破棄すべき占領統治憲法(現・日本国憲法)を温存するというマイナス面を残して現在に至っています。
他方、李承晩の暴挙によって、せっかくの講和後も日本の参戦を棒に振った米国は、あくまで北朝鮮との戦いの継続を望む李承晩を無視して、彼の頭越しに北朝鮮との休戦協定を結びました。
これが昭和二十八年七月二十七日の出来事で、以来、朝鮮半島は北緯三八度線を境に北と南に別れています。
「頭越しに」というのは、たいへん重要なファクターです。
要するに、米国は、この時点でもはや韓国を共に戦うパートナーとみなしていなかった、ということだからです。
一方、この休戦を不服とした李承晩は、韓国内に収容した敵軍の捕虜を国内で何の脈絡もなく全員釈放して放逐するという暴挙に出ています。
放逐された捕虜たちは韓国各地で事件を起こし、多くの韓国民に惨事を招きました。
米国政府は、この李承晩の勝手な行動に猛抗議をしています。
が、あとの祭りでした。
こうして大統領というよりも、まさに暴君としての専制政治を敷いた李承晩でしたが、彼の専横政治がようやく倒れたのは、昭和三十五(1960)年になってからのことです。
韓国国内で民衆による李承晩打倒デモが起こったのです。
韓国全土に広がったこのデモは、一八六人もの死者を出し、ついに駐韓米国大使のマカナギーが李承晩を訪れて、大統領を辞任しなければ、米国は対韓経済援助を中止するとまで通告します。
みなさん、これが何を意味するかわかりますか?
これは米国による明らかな、たいへん露骨な「内政干渉」です。
この時点で米国は、韓国をすでに「国家」としてみなしていなかった、ということです。
国家ではなく、未開の蛮族であれば、その蛮族の自治は、基本的に未開の蛮族に任せるのが原則ですが、状況に応じては国家は蛮族の平和のために、必要な干渉をしなければならない。
それが世界の常識です。
ですから、米国のこの通告は、内政干渉ではなく、国家が蛮族に行う当然の処置でもあったのです。
すこし補足すると、ラスク書簡、その後の通告、そして朝鮮戦争の休戦。
朝鮮戦争は、38度線で「休戦」していますが、これは、
「韓国が北朝鮮と休戦」したものではありません。
「米国が北朝鮮と休戦」したのです。
韓国があくまで戦争継続を主張する中で、米国が「勝手に」休戦協定を締結してしまったのです。
ですから、朝鮮戦争の「休戦」は、韓国と北朝鮮の「休戦」ではなく、「米国と北朝鮮」の休戦であり、韓国はいまだ「戦争中」です。
にもかかわらず、米国は韓国に戦闘行為の継続の停止を要求しています。
そして後年、李承晩の大統領継続も、拒否しています。
つまり「内政干渉」です。
こんなことが公然と行われたということは、すでにこの時点で米国は韓国を「人の国家」とみなしていなかった、ということです。
米国に見放された李承晩は「行政責任者の地位は去り、元首の地位だけにとどまる」と発言しました。
これがまた韓国民衆の怒りを買います。
民衆が求めたのは、李承晩の政権の追放だったからです。
パゴダ公園にあった李承晩の銅像は、暴徒と化した民衆によって引き倒されました。
韓国国会は全会一致で、李承晩の大統領即時辞任を要求しました。
ここにいたって、李承晩体制は、ようやく終止符がうたれます。
そして李承晩は養子にとった息子まで自殺するなかで、ひとり米国に逃亡し、九十二歳までしぶとく生き延びています。
李承晩自身は失脚しますが、残念ながら韓国の法律に組み込まれた「李承晩ライン」は、その後も維持されました。
ようやくこれが廃止されたのは、昭和三十一(1956)年に軍事クーデターを起こして、韓国内に新政権の朴正煕大統領が誕生してからのことです。
日本の陸軍士官学校を卒業し、親日家であった朴正煕大統領は、昭和四十(1965)年六月に日本との間で「日韓基本条約」を締結し、李承晩ラインを廃止しました。そして日本の経済援助を得て、韓国内の産業振興を図り、結果韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済の大発展を遂げたのです。
ただ、この日韓基本条約において李承晩ラインは廃止となったものの、竹島については、当時の日韓両国において「争いの余地のない日本の領土」という認識のもとで、特段の取り決めがなされませんでした。
このため、いまだに竹島が領有をめぐっての日韓の火種となって残っています。
さて、私達日本人は大統領という名前を聞くと、米大統領のような法治主義の代表者というイメージを持ちます。
けれど韓国における大統領は、未開の野蛮族の王様です。
絶対君主であり、君主は民衆の幸福より君主の身の安全を優先します。
李承晩はまさにそのために反日侮日工作を行ったし、昨今の李明博もそのひとりです。
そしてその韓国の反日侮日の原点となっているのが、韓国の初代大統領李承晩の蛮行にあります。
ひとつ申上げたいことがあります。李承晩は(いまの韓国もそうですが)、李氏朝鮮時代をまるである種の「理想国家」として描いている点です。
その「東洋の理想国家李氏朝鮮」を打ち壊し、破壊したのが日本だというわけです。
けれど、この路線を敷いた李承晩は、その李氏朝鮮王朝について、何ら畏敬の念も尊敬の念も敬愛の情も持っていなかったことは、以下の事実が証明しています。
どういうことかというと、李承晩は、李氏朝鮮王朝の正当な血を引く李氏朝鮮の皇族の韓国入国を拒否しているのです。
日本は戦前、朝鮮を統治するにあたって、李氏朝鮮王朝の最後の皇太子である李垠殿下を、日本の皇族と同じ待遇として日本に招いています。
その李垠殿下は日本の陸軍中将として軍事参議官まで勤められました。
李承晩は、その李垠殿下を、事実上の国外追放状態にしたままにしました。結局李垠殿下は、日本で生涯を質素な公営住宅で過ごされ、亡くなられたときも公営住宅内の集会所でひっそりとした葬儀がとりおこなわれています。
このとき韓国政府からの出席者は皆無です。
皆無、皆無です。
日本からは三笠宮崇仁親王殿下がご出席賜われました。
その様子に参列した全員が涙を流しています。
要するに李承晩には、李氏朝鮮時代への憧憬などまるでなかったわけです。
あったのはただの妄想であり、彼はその妄想を自己の権力の拡大に「利用」しただけ、ということです。
ところが、多くの韓国民が、そのくだらない妄想からいまだに抜け出せないでいる。
「建国の妄想どこまでも」というわけです。
しかし、その妄想のおかげで何が起こったか。
500万人の命が失われ、いまもまだ朝鮮戦争は続いているのです。
さて、最近、私は思うことがあります。
それは、結局のところ、かつての白人社会における「ルールを守れないモノは『人』ではなく『獣』である」という考えは、正しい考えだったのではないか、ということです。
李承晩の非道、金日成の非道、中共政府の非道、そして昨今の李明博韓国大統領の陛下に対する侮辱発言、さらにはロンドン五輪における「スポーツでさえもルールを守れない民族」。。。
そうしたものを目の当たりにするにつけ、かつて日本が「獣」を「人」とするために、財をかたむけてまで懸命に努力したことが、結果として何の役にもたっていない。
いないどころか、むしろいまだに彼ら「獣人」たちは、世界に害毒をまき散らし続けています。
日本では何の報道もされていませんが、すでに国際社会においても、「獣はやはり獣でしかない」という解釈が主流になりつつあるといわれています。
日本も、戦前から続く「人は人である」という考えを、そろそろ改めなければいけないのではないかと思うのです。
韓国人が、自分たちは「獣」ではない、と思うなら、自ら努力してルールを守る「人」になれ。
できないのなら、日本はこれ以上、彼らと国交を交える必要はないし、国内にいる「獣」に生活保護金など与える必要もない。
日本人は、しっかりと歴史の真実を見据え、戦後にねじ曲げられた歴史から、真実の歴史を取り戻さなければなりません。
同様に心ある韓国の人々も、一日もはやく、歴史の真実から目を覚まさしていただきたいと思います。