【土・日曜日に書く】論説委員・福島敏雄
恋しい「南の島」
日本民俗学の創始者、柳田国男は明治31(1898)年、東京帝大2年生のときの夏、愛知県の伊良湖岬に2カ月間ほど滞在した。風の強かった日の翌朝、砂浜を散歩すると、椰子(やし)の実が打ちあげられているのを3度までも見た。
4年後に書かれたエッセー「遊海島記」には、椰子の実をひろいあげ、「南の島恋しくなりぬ」と、若者らしい叙情的な感慨をもらしている。この実見談を島崎藤村に話し、いまも歌いつがれている「椰子の実」が作られたのは、あまりにも有名である。
以来、「南の島」は、柳田の一貫した学問上の関心事となった。大正期には沖縄にわたり、『海南小記』をまとめた。87歳で亡くなる前年には、代表作となる『海上の道』を上梓(じょうし)した。
伊良湖岬で椰子の実を見つけてから、すでに六十数年、尋常ならざるこだわりであった。
柳田南島論のキーワードは、宝貝とイネである。宝貝は秦の始皇帝が銅貨を造る以前まで、大陸では貨幣として使われた「至宝」であった。そのころ、大陸から宮古島に漂着した人が豊富な宝貝を見つけた。
漂着者は、この宝貝を大量に採取するため、いったん大陸に戻り、本格的に宮古島に在住するため、家族とともにやってきた。このとき、イネの苗をもってきた。
この人たちが原日本人である。かれらは、作家の島尾敏雄が命名したヤポネシア(日本列島)を、島伝いに北上し、現在の日本人となった。
大胆な仮説に対し、民俗学だけでなく、古代史学や考古学、人類学、生物学など諸分野の学者からは反論が浴びせられた。柳田とも交友があった政治学者、中村哲(あきら)ですら「学問以前の、椰子の実に仮託する初心の夢」と書いたほどである。当の柳田自身も、次のように結んだ。
「やや奇矯(ききょう)に失した私の民族起源論が、ほとんと完膚なく撃破せられるような日がくるならば、それこそは我々の学問の新らしい展開である」
だがここでは、多くの反論を無視し、柳田に沿ったかたちで論をすすめる。すくなくとも民俗学にかぎれば、日本の祭祀(さいし)の多くは、琉球弧が起源であったのはたしかであろう。
本土の祭祀の起源
ちょうど1年まえ、沖縄本島の南部の沖合にある、神々が住む島といわれる久高(くだか)島をおとずれた。フボー御嶽(うたき)を見学するためだ。見学といっても立ち入り禁止のため、外側から眺めただけだが、深い森の中からは神々の「気」のようなものが漂ってきた。
久高島には、本土のアマテラスにあたるアマミキョが降りたったとされる。この御嶽では12年に1度の午年に、もっとも重要な秘祭「イザイホー」がいとなまれていた。だがノロ(巫女(みこ))がいなくなったため、昭和53年を最後にして、中断された。
記録としてのこすために、このときのイザイホーは公開された。昼でも小暗い森につつまれた御嶽は三、四十坪ほどの広場で、隅のほうに香炉を置く石が数個あるだけだったという。ようするに「なんにもない」場であったのである。
日本の神社には、たいていは社殿があり、御神体が鎮座されている。だが古代、日本の祭祀の場もなんにもなかったはずである。江戸前期の浄土宗の僧侶で、琉球にわたった袋中(たいちゅう)上人は「国ノ風トシテ岳々浦々ノ大石大樹皆神ニ崇メ奉ル」と書きのこした。本土の「国ノ風」も、かつてはまったく同じであった。
衰退しつづける「民俗」
琉球王国が築かれたのは、15世紀初頭とされる。明・清の冊封体制下にあったが、薩摩藩が慶長年間に軍事侵攻を行い、過酷な貢納制が敷かれた。明治12年には、その薩摩藩出身の大久保利通内務卿の決断で、廃藩置県が敢行された。「琉球処分」である。
以降、琉球弧は日本の政治・軍事にとって、つねに中枢的な問題を抱えた島々でありつづけた。その多くは未解決のまま放置され、15日には、復帰40年をむかえようとしている。
だが問題はもうひとつある。琉球処分いらいの近代化による開発や、米軍との戦闘などによって、多くの御嶽が破壊され、所在不明となってしまったことだ。フボー御嶽とならぶ重要な祭祀の場であった本島の斎場(せーふぁ)御嶽のように、観光地となってしまった聖地もある。ノロになる女性も減少した。
本土にイネや祭祀をもたらした島々の民俗の衰退は、政治・軍事などよりも、日本の文化を考えるうえで、はるかに大きく、重要な問題であると主張することは、けっして「奇矯」に失してはいないはずだ。
(ふくしま としお)