【主張】「3・11」災害克服の長い歴史学ぼう。
あれから、1年になる。
昨年3月11日、東日本大震災が列島を激しく揺さぶり、大津波が北海道から関東に至る太平洋岸を襲った。死者・行方不明者は2万人近い。肉親や友人知人を失った人はその何倍にもなる。
「3・11」はまず、鎮魂の日として記憶すべきだろう。犠牲者の霊を慰めることなしに、次の一歩を踏み出すことはできない。
そして、決して忘れないことである。あの日に何が起きたか。この1年にどう立ち上がったか。必ず来る次の地震や津波に備える一人一人の覚悟のためにも、「3・11」を忘れてはならない。
被災地で多く聞いたのは、忘れること、忘れられることへの恐れだった。忘れないためのさまざまな努力も続けられている。
≪「釜石の奇跡」広げよう≫
一例を挙げる。岩手県釜石市は鉄と漁業の町だ。新日鉄の社員や海の男でにぎわった町の中心部は壊滅的被害に見舞われた。
繁華街だった町並みは、1年後の今も無残な姿をさらしている。頑丈なはずのコンクリート壁が流され、むき出しにされた鉄骨や街灯は山側にねじ曲がり、津波の水圧のすごさを物語っている。
人口約4万人のうち、死者・行方不明者は1千人を超えた。悲しみに沈んだ町に、「釜石シーウェイブス」というラグビーの地域クラブがある。かつて日本選手権で7連覇を飾った新日鉄釜石の後継にあたる。
「海の波」という名は津波を想起させ、ロゴマークも高波のデザインだ。だが、震災後、クラブを支えてくれる町の人々の声も聞いた上で、名称もロゴマークも存続させることをクラブは決めた。大災害の記憶を忘れず、乗り越えていく「象徴」とするためだ。
釜石では、震災時に小中学校にいた約3千人の児童生徒に一人の犠牲者も出さなかった。「釜石の奇跡」と呼ばれている。
「津波てんでんこ」の伝承とともに、幾度も被害を出した歴史に基づく防災教育を徹底した成果といえる。これまで蓄積した知恵や教訓をきちんと学んできたことが子供たちの命を救ったのだ。
一方、仙台平野や福島県沿岸で被害が拡大した原因として、三陸沿岸に比べて津波への警戒心が薄く、「想定外」とされがちだったことが挙げられる。明治以降の津波が三陸沿岸に集中し、「仙台平野以南は大津波は来ない」との思い込みがあったためとされる。
貞観地震(869年)と同規模の巨大地震が約1千年間隔で襲い来ることが宮城・福島県沿岸にも周知されていれば、多くの人が助かっていたかもしれない。
日本の位置と地勢を考えれば、地震や津波がいつどこを襲ってもおかしくない。同時に、国民には地震や津波のたびに復旧復興を成し遂げ、繁栄を築いてきた学ぶべき歴史がある。
先の戦争の壊滅的打撃も国民が心を一つにして克服した。
≪国民の生命財産守れ≫
「3・11」とその後の1年は、後世に伝えるべき最も新しく、重要な歴史である。あらゆる記録を史料として残す必要がある。
その意味で、政府が多くの重要会議で議事録を残さなかった罪は大きい。国会や政府の事故調査委員会は可能な限りの「事実」を掘り起こし、保存し、次代にしっかりと伝える責務がある。
被災地の岩手、宮城、福島3県が、津波の到達点を示す共通標識を沿岸部に設置する取り組みを始めていることも評価したい。
また、人々が地震や津波にどう立ち向かったかも、きちんと伝える必要がある。宮城県南三陸町職員の遠藤未希さんは、防災対策庁舎にとどまって町民に防災無線で避難を呼びかけ続け、自身も津波の犠牲になった。彼女の行動は、この4月から埼玉県の小中学校の道徳教材に掲載される。
自衛隊、警察、消防をはじめ、懸命の救出活動に力を尽くした人々の尊い姿も語り継ぎたい。あらゆる機会をとらえて「3・11」の記憶を新たにしていきたい。
国民一人一人が家具の転倒防止や避難場所、経路の確認を怠らないことも大切だ。誰もが大震災に遭遇する可能性がある。
天変地異や災害にあたり国民の生命と財産を守ることは国家の最大の責務だ。国の十分な備えこそ最大かつ最後の砦(とりで)といえる。想定できることを「想定外」とせず、常に万全の備えを求めたい。