大災害に向き合う日本人の心象。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【正論】宗教学者・山折哲雄



阪神淡路の大地震が発生したとき、私はたまたま京都西郊の8階の部屋で覚(さ)めていた。おきあがるのとほとんど同時に書棚が倒れ、危うく身をかわして逃れた。それだけですんだのであるが、地の底からつきあげてくる不気味なものの力にふるえあがった。地下世界に地獄を想像した人びとの怖(おそ)れの気持ちが、一直線に胸につきささってきたのである。

 東北地方を中心とする巨大地震と大津波、追い打ちをかける福島第1原発の危機に際会して、いま私が痛切に思い起こすのは鴨長明と日蓮である。長明は元暦2(1185)年に発生した都の大地震の経験を『方丈記』に書き、日蓮は正嘉元(1257)年におこった鎌倉大地震の経験を背景にして『立正安国論』を書いた。

 『方丈記』は出世の道をはばまれた失意の隠者、長明が世の移りゆき、人間の栄枯盛衰のはかなさに無常を感じつつ綴(つづ)った自伝随筆である。そこには地震の被害だけでなく、都を襲った大風に逃げまどい、飢饉(ききん)におびえる人びとの惨状が克明に描きだされている。

 これにたいして、『立正安国論』は、幕府のおひざもとの鎌倉で辻(つじ)説法をはじめた日蓮が、政治の変革を求めて北条時頼に提出した思想書である。そしてここにもまた、大地震によって神社・仏閣が倒壊、焼亡し、暴風、大雨、洪水にほんろうされる人々の悲惨な姿がえぐりだされている。

 ≪鴨長明の方丈記の天災論≫

 眼前に「東北地方」の巨大な被害が山積している大変な時期に、800年も昔の話をもちだしたのはほかでもない。2人の生き方のなかに天変地異という名の災害にたいする二つの根本的な態度が見出(みいだ)されるように思うからである。すなわち鴨長明の考えに「天災」論を、たいして日蓮に「人災」論をみる思いがするからである。

 周知のように『方丈記』の世界は1人住まいの簡素な生活から成り立っている。吹けばとぶような草庵には、琴や琵琶をひき和歌をつくるための部屋と、読経や瞑(めい)想にふけるための部屋があるだけだった。一切の家具・調度をとりはらい、わずかに芸道に励み、ときに仏道に心を寄せるだけのバラック住まいであった。そしてそれだからこそ、その方丈の空間はかれにとっては人生のすべてであり、宇宙の中心であった。それにくらべるとき、世間を騒がす時代の動きや人事の葛藤はすべて変化してやまない不確かなものと映っていた。ひとたび大地が震え雨水があふれでれば、手をこまねいてみているほかはなかった。自然の脅威は「天災」以外の何物でもなかったのである。

 ≪日蓮の立正安国論の人災論≫

 これにたいして日蓮の場合はどうであったか。かれはさきにもふれたように鎌倉の街頭に出て辻説法をおこなっていた。ときの政治を容赦なく批判し、とりわけ法華経にたいする不信こそが、社会不安や自然災害をひきおこす重大な原因であると主張していたのである。『立正安国論』はそのような日蓮の考えを問答体で展開した作品であった。そのためかれはやがて罪をえて、伊東に流される。

 日蓮はこの著作で二つの危機について論じている。法華経をないがしろにすることによって生ずる危機である。一つは国内に不安と混乱をひきおこす「内乱」の危機、もう一つが国家に侵入してくる「外敵」による危機である。そして日本の国土を襲った地震、台風、洪水というあいつぐ災害の発生こそ、そのような内乱と外敵侵入による危機の兆候を示すものだと警告を発したのである。かれが地震などの災害を「人災」とみなしていたことがわかるだろう。

 ≪生き方と表裏一体の議論≫

 鴨長明にとって自然の災害は必然であった。自然がひとたび怒りだせば人間はその前に首を垂れ、服従するほかなく、それに反逆するなど思いもよらぬことだった。だが、すべてをあきらめて絶望の淵(ふち)に沈んでいたのではない。なぜなら、吹けばとぶような庵(いおり)に身を隠して風流に生きるしたたかな術を心得ていたからだ。かれはおそらく自然に逆らわずに生きる最善の方法を知っていたのである。

 それにくらべるとき日蓮の前に襲いかかった自然の災害は、むしろ回避しようと思えば、いつでもそうすることのできる一時的な試練と映っていた。かれは鴨長明のように国家や社会の危難にさいして無常の原理をもちだすことをしなかった。自然の「危機」の発生にたいして、精神の「純化」の重要性を、当時としてはもっとも声を大にして主張した人間であったといってよいだろう。しかしながらその日蓮もやがて辺境の地に追放され、最後は身延(みのぶ)の山中に籠もって鴨長明と同じような庵の生活に自己を隔離するにいたったのは皮肉な運命であった。

 もしもそうだとするならば、鴨長明と日蓮にみられる中世の天災-人災論を今日われわれの天災-人災論から分かつものは、ただ一つ、かれらが自分の生き方そのものと表裏一体となった議論を展開していたというところにあるのではないだろうか。


                                  (やまおり てつお)